象牙の家に住む人たち


                      登山電車の車窓から見たチェルマットの町       (右端クリックで拡大)
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                                                小石ひとつ地に落ちない (上)
                                                アモス9章1-15節


                              (序)
  先週は第2イザヤの預言から「主の僕の歌」を学びました。主の僕は、悩み苦労する人と共におられる神、そのような者に寄り添って決してお見捨てにならない神を指し示していることを学びました。

  今日は同じ旧約の預言者ですが、預言者アモスの書を取り上げます。アモスは、今から2800年程前の預言者です。エレミヤのような祭司階級の出でも、第1イザヤのような上流階級の貴族の出でもありません。彼も神から召命を受けた預言者ですが、大地に足をつけた骨太の農民で、根っからの野人です。彼はテコアという不毛の山地で羊を放牧し、イチジク桑を栽培する貧しい農民として、都会の大富豪や奢侈にまみれた人たちの暮らしに厳しく迫りました。それで、今日は少々荒っぽい言葉が出るかも知れませんので、ご覚悟ください。

  今日の9章を理解するには、その時代の社会背景をお話しなければなりません。

  それで先ず、2章6節以下で、こう神の言葉を語ります。「イスラエルの3つの罪、4つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない。…正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ、悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通い、わたしの聖なる名を汚している。祭壇のあるところではどこでも、…質にとった衣を広げ、科料として取り立てたぶどう酒を、神殿の中で飲んでいる。」

  権力者や富豪たちの横暴です。神殿に仕える祭司たちも神に砕かれて真実に生きようとしない。カネとボロ儲け。そういう世の風潮です。しかもそのカネをロクなものに使わない。主なる神への侮辱であり冒涜だという訳です。

  3章13節以下では、「わたしがイスラエルの罪を罰する日に、ベテルの祭壇に罰を下す。…わたしは冬の家と夏の家を打ち壊す。象牙の家は滅び、大邸宅も消えうせると、主は言われる。」

  農民は苦労しその日の食べる物もない。すっかり疲弊し切っているのです。だが富豪たちは冬と夏の家。避暑と避寒の2つの別荘を持ち、象牙をふんだんに使った大邸宅に安穏に暮らしている。しかも、農民が貧しいのは彼らの自己責任だ。俺たちが豊かなのは、業績を上げ競争に勝ち抜き、神様から祝福を貰ったからだと言い放って反省しない。祭司たちはというと、神殿の一室で罰金で巻き上げたぶどう酒をくらって酒盛りしている。

  6章4節以下も同様に、「お前たちは象牙の寝台に横たわり、長いすに寝そべり、羊の群れから小羊を取り、牛舎から子牛を取って宴を開き、竪琴の音に合わせて歌に興じ…。大杯でぶどう酒を飲み、最高の香油を身に注ぐ」と語ります。

  5章12節以下では、「お前たちの咎(とが)が、…その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂(わいろ)を取り、町の門で貧しい者の訴えを退けている。それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。」

  社会がすっかり弱肉強食になってしまっている。法も正しさも通用しない。世が完全に覆っている。知恵ある者や識者は金持を恐れて一言も発言しない。見て見ぬふりし時代に迎合している。すなわち、主のみ心から外れた実に情けない時代だと嘆くのです。

  こうして5章24節で、「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」と有名な言葉が語られます。今日は直接は触れませんが、これはアモス書の大きなテーマです。

  次に、アモスは7章から9章にかけて5つの幻を語ります。先ず、7章の第1、第2の幻で審判を語りますが、「主はこれを思い直され」と語って、2度にわたって、神が審判を下すことを思い直されたと語ります。これは主の大いなる忍耐を証ししています。

  第3、第4の幻になると、主の忍耐に次ぐ忍耐にかかわらず悔い改めぬ彼らを、もはや神は「見過ごしにできない」と語り、「このことを聞け、貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ」と語って、8章5節、6節で厳しく彼らのごまかしを糾弾し、主はこのことを「いつまでも忘れない」と断言し、11節で、「主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」と語るのです。これも有名な言葉です。

  主の言葉は実際には語られているのです。だが聞く耳を持たない故に、御言葉への飢饉が起こっている。耳障りのいい安易なもので代用し、主の言葉を真面目に聞こうとしない。そこに神の言葉の飢饉の原因があるというのです。

          (つづく)

                                        2014年5月25日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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