それを嘲りと思わない


                           チェルマット村の散策          (右端クリックで拡大)
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                                                 朝、耳を覚(さ)ます (下)
                                                 イザヤ50章4-22節


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  この主の僕が誰であるかは諸説さまざまです。一つは預言者自身だというもの。第2は、信仰と正義を持った主の僕の理想像を描いているとする説。第3は、イスラエルの信仰的エリートを総合した架空の存在。更に、メソポタミアに捕囚となって連行されたイスラエルの民全体を指すという説などです。(Commented Bible passage; Taize)

  いずれにせよ、この僕の特徴は、極度の謙遜、徹底した謙遜です。彼は弱い者を励ましますが、彼自身が辱めを受けている犠牲者でもあります。

  「わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない。」

  ここは、ヘンデルメサイアでアルトが情感豊かに歌う箇所で、その歌には思わずシビレます。「ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」ここが歌われると、十字架を前に侮辱されるイエスの姿が目の前に彷彿とさせられ、聴衆は心揺すぶられます。

  彼は辱めを受けている犠牲者と申しましたが、彼は犠牲をものともしません。意志的な人物で、気迫と鋭さを持っています。嘲りをも嘲りと思わないのです。どんなに罵られ、悪態をつかれ、顔にツバキされても、疲れた人、弱った人、苦労する人の傍らに立ち、そこから決して立ち去ろうとしないのです。イスラエルに、「カエルの顔にションベン」という言葉があるかどうか存じませんが、ここにある主の僕は決してたじろがぬ姿をしています。

  「私は顔を硬い石のようにする」と語っています。硬い石とは、英語でフリントとなっています。日本では見かけませんが、ヨーロッパではよく見かける非常に硬い石で、矢尻や火打石にされます。これは、何ものによっても傷つけられない刃物のような硬さの象徴です。

  箴言に「無知な者は怒ってたちまち知れ渡る。思慮深い人は、軽蔑されても隠している」とあります。私たちは侮辱されると傷つき怒りますが、主の僕は傷つかないのです。厚顔無恥と違います。どこが違うか。主の僕は自己の為でなく、低くされ、小さくされ、疲れて重荷を負う者への愛のためです。傷つけられても傷つけられていないかのように、彼らに寄り添うのです。寄り添ってたじろがないのです。

  これは何を語ろうとしているのでしょう。イエスは徴税人や罪人の友となった為、その仲間だと言われ、蔑(さげす)まれ、嘲られ、排除されました。だがイエスはそのように扱われても、どこまでも弱った者を愛し、友であることをやめられません。

  イギリスの新聞に、最近こんな記事が載っていました。百年ほど前、アメリカの宣教師夫妻がミャンマービルマの山岳地帯にキリスト教を伝えました。ミャンマーは仏教国といわれますが、彼らの伝道でその山岳地帯一体はすっかりキリスト教になりました。彼らは低地で伝道していましたが、奥地のチン族に福音を伝えるという新しいチャレンジに乗り出し、インドとの国境近くまで入ったのです。

  虎や山猫に至る所で出会う、深いジャングルを6週間にわたって旅し、狭い山道を登り、千尋の谷底を見下ろしながら更に急斜面を高地に登って、ハッカという目的地に着きました。ところが、チン族の町は言語を絶するほど不潔で汚かったそうです。町のイギリス植民地官の家さえ、たった2部屋と実に狭く、泥で作られ、床はなく、土間だけでした。妻はついに根を上げ、「アーサー、私はもうダメ。ダメなの。…こんな恐ろしく忌まわしい者たちの所にとても住めないし、おれないわ」と言って、激しく泣いたそうです。

  ところが翌日、彼女の心を一変させることが起こりました。チン族のガイドにお金を支払っていた時、起こったというのです。次のように彼女は書いています。「山を登る途中、18才ほどの稀に見る魅力的な女性がいたので、私は友達になろうとした。彼女は短いスカートを履いているだけで、他は何も身に付けていなかった。この女性が輝くような笑顔で私の所に来て、目を見てニッコリ笑い、私の顔を垢まみれの手で軽く叩いて、『さよなら』と言った。私はその時、ドラモンは正しいことが分かった。『愛は世界中で一番偉大だ』と彼は言ったのだった。

  私は気分が悪くなるほど汚ならしい彼女の外観を超えて、その向こうに彼女の姿の全てを見たのです。彼女の殆ど何も付けていない全裸の姿を見たのです。私は魂の窮乏というものを知ったのです。神に献身したキリスト教の女性が、彼女や彼女と同じような境遇の人たちのために何かをしたいと望んだなら、何ができるだろうか。今や、何ものにも比べられない、何という絶好のチャンスが私に訪れたことでしょう。」

  こうして彼らを愛することを知り、愛の偉大さを知り、そこからこの町への伝道が始まったと書かれていました。過酷な人生のために心がボロボロになり、魂の渇き、窮乏というものを持って苦労していることを知って、その人たちの傍らに留まろうとした。それがやがてチン族すべてがクリスチャンになるきっかけになったというのです。

  主の僕が、人生にボロボロになって苦労する人の傍らに留まる。これは何を象徴しているでしょう。それによって、神が苦しめられ苦労する人の傍らにいますことです。神の偉大な愛です。神は、神の使いの人物において、苦しめられている者たちのそばにおられるのです。嘲りも嘲りと思わず、神はそこにおられるという事です。

  この主の僕を思うと、私は長い伝道生活を振り返って、かつて農村地域に遣わされた時に、貧しい農家や苦労する農民の傍らに、どれだけ一緒に留まっただろうかと思わずにおれません。幼児施設のある教会にいた時、苦しむ子や母と、どれだけ共にあろうとしただろうか。意志弱く、不十分だったとしか思えません。もっと愛が深かったらと思えてなりません。

  私たちが苦しみを持つ人たちのそばに存在することによって、神がそこに存在しておられることを指し示すのです。罪なき者が受けている苦しみは、神においては恥ずべきものではないこと。むしろ、神の憐れみを指し示し、神が共に苦しんでくださっていること。神は共に苦しむ神であることを指し示すのです。

  苦難は愛そのものではありません。愛のない苦難もあるからです。だが苦難が愛とつながり、苦難が愛であるとき人の魂に届くのです。

  「わたしはそれを嘲りとは思わない。」なぜ嘲りと思わないのでしょう。「わたしの正しさを認める方は近くいます」からです。疲れた、弱った者と共にいる私の正当性を認め、私と共に争って下さる神がおられるからです。だから彼は、「誰がわたしと共に争ってくれるのか、われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか、わたしに向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう」と語るのです。

  嘲りと思わないばかりか、「私に向かって来るがよい」と語っています。何と勇敢な態度でしょう。「誰がわたしを訴えるのか、わたしに向かって来るがよい。」不真実な人間たちとの戦いを示唆しているのでしょうか。彼は、神がそこに存在されることに希望を見出しているのです。私たちは、むろん下手に挑む必要はありませんが、この主の僕は何と逞しい姿でしょう。

  下手な挑戦はすべきでありませんが、それでも、このような力を、逞しさを与えられたいと思います。次の10節にもあるように、人生の闇の中を歩く時も、光のない時も、主のみ旨に信頼していく。主のみ声が聞こえない時にも主を支えとしていく者でありたいと思います。イエスはそういう歩みをなさり、ゲッセマネでも十字架でも、そういう歩みをなさいました。「人がその友のために命を捨てる。これよりも大きな愛はない。」イエスのご生涯はその証でした。

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  初代キリスト教徒たちはイエスの生涯と死に直面した時、この主の僕、神の僕こそイエス・キリストを指し示しているとすぐさま気づいたのです。

  先程、「顔を硬い石のようにする」という言葉を申しましたが、これは、ルカ福音書9章で、敢然と「エルサレムに向かう決意を固められた」とある、イエスの堅い意志を指しているとも言われます。

  いずれにせよ、初代キリスト教徒たちから500年以上も昔の預言ですが、イザヤ書の主の僕の歌はイエス・キリストにおいて成就したと考えたのです。

  今日の箇所は、ローマ書8章33節以下に反映しているのは明らかです。パウロはおそらくこの箇所を思いながら33節以下を書いたのです。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 」

  イザヤ書の「主の僕の歌」が、人間のための神を預言しているとすれば、その徹底した人間との連帯、極限にまで達する「神われらと共にいます」との、神の人間との連帯を明らかにすることによって、その後の人類すべてに希望、勇気を与えようとしたのです。

         (完)

                                        2014年5月18日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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