朝、耳を覚(さ)ます


                        アルプスの決闘で楽しみました          (右端クリックで拡大)
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                                                 朝、耳を覚(さ)ます (上)
                                                 イザヤ50章4-22節


                              (1)
  今日は、「耳を覚(さ)ます」という題です。耳慣れない表現ですが、私たちはしっかりと生きるためには、目だけ覚ましていては不十分で、耳を覚まし、心を覚まし、心の奥に向かって語られるお方に、聞き耳を立ててしっかり聞いていくことが大事なのです。

  イザヤ書は数多くある預言書の中で一番分厚い預言書で66章あります。これは一人の預言者が書いたのでなく、時代が異なる3人のイザヤによって語られた預言です。40章から55章までは第2イザヤと言われますが、今日は50章、「主の僕の忍耐」という所を取り上げました。今から約2500年前の預言です。お調べ下されば分りますが、40章から55章までの第2イザヤに、4つの「主の僕の歌」が記されています。第2イザヤの中心はこの「主の僕の歌」です。いや、「主の僕の歌」は旧約聖書全体の中心であると言っても過言ではありません。そういう所から今日は学びます。

  今日の箇所はその3番目の歌ですが、先ず、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる」と語っています。

  この僕は、疲れた人、弱っている人を励ますことに心を尽くす人です。そのために、「主なる神は、弟子としての舌を私に与え…言葉を呼び覚ましてくださる」と語ります。しかも、「朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる」と語ります。

  彼は、重荷を負う人を励ますために神に召された人かも知れません。謙遜な心をもって、弱っている人たちと歩もうとする人ですが、そのために、主の言葉に耳を澄まして聴くのです。

  今はご家族の介護をする方も沢山おられます。そのために仕事をやめざるを得ない方々もあるようで、自己責任、自己責任と政府は言いますが、この先、日本はどうなるのかと危ぶみます。その他にも重荷を負う人と歩む方々があります。

  イザヤ書に戻ると、重荷を負い、疲れている人と歩むために、人間的思いを超えて、神様は「弟子としての舌」を私に授けて下さると語っています。「弟子としての舌」とは、神様から遣わされ、神の愛を授けられて語る舌のことです。命を与える舌であるか、それともそうでないか、癒しを与える唇であるか、それともそうでないかどうか。それは極めて大事です。

  ただ、彼の舌がそのような舌にされるために、朝毎に、「耳を呼び覚まされ、弟子として聞き従うように」して頂かなければならないというのです。朝毎に肉体の目を覚ますだけでなく、神に向かって耳を覚まし、心を覚まさなければならないのです。そして、主なる神は、そのような耳を呼び覚まし、そのような言葉を呼び覚まして下さると語るのです。

  時代はこれより更に5百年程遡(さかのぼ)りますが、少年サムエルが育った時代は、信仰の灯火が社会から消えそうになっていた時でした。彼はまだ小さい少年でしたが、どこからか聞こえる呼び掛けを何度も耳にしたのです。彼は、自分が預けられていた祭司エリに呼ばれていると思い、寝床から起きてエリのもとに行きますが、自分は呼んでいないと言われます。やがてそれが主の呼びかけであることを知って、「僕は聞きます。主よ、語り給え」と、耳を覚まして聞きました。かくして、習慣的になって眠りこけていた当時の人々の耳が、少年の彼が聞いた言葉によって再び新鮮に主の言葉を聞くのです。それが国に新しい時代の夜明けをもたらしていきます。個人の耳が社会に新風を吹き込むのです。

  イザヤ書に戻ると、大事なのは、この主の僕は、単に疲れた人を一生懸命に支えるだけでなく、彼自身がみ言葉によって支えられていく人であったという事です。彼自身が弱ってしまい、疲れてしまい、魂の内的な力の枯渇を覚える中で、主の御言葉によって支えられたのです。

  私たちは家庭や社会で何かの仕事や奉仕をして誰かを支えなければならない場合、それをしている私が背後から支えられていると励みになります。だが背後からの支えがなかったり、全く評価されないなら、心は乾いてそれを行う力が萎えてしまいそうになるでしょう。というのは、どんなに大切な奉仕でも、そこには人間の複雑な問題がいっぱい絡んで来るからで悩みは尽きません。色々の衝突、挫折があり、無意味さも現れると、嫌になっちゃうわけです。

  奉仕的な何かの働きをすることは素晴らしいことです。だがその場で働くためのエネルギーを、深いところから得ていること。できれば、神にまで達する深い所から汲んでいるならば、マンネリになることも含めいろんな問題を乗り越えていくことができるでしょう。

  ですから、「朝ごとに、わたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにして下さる」という言葉はとても示唆に富んでいます。彼は、朝毎に、新たな使命と力を与えられて仕えていったのです。

         (つづく)

                                        2014年5月18日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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