人は墓穴を見ずにすむか


                           チェルマットのお庭           (右端クリックで拡大)
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                                                    墓前礼拝
                                                    詩編49篇


                               序)
  今日は朝の礼拝の後、風かおる武蔵野霊園の眺めのいい教会墓地にやって来て、1年ぶりに墓前礼拝をしています。

  墓前礼拝とは一体何でしょう。これは、仏教などが墓前で読経するのとは違います。私たちは礼拝をしているのです。既に召された人たちを偲びながらの礼拝ですが、それと共に、むろんここに葬られた人たちが実際に耳を済まして聞いてくれている訳ではありませんが、しかしこの方々もかつてご一緒に礼拝をしたように、今ここに参加しておられるものとして神様のみ前で礼拝をしているのです。むろん神を礼拝しているのであって、彼らを礼拝(れいはい)したり、礼拝(らいはい)したりしているのではありません。

  礼拝で偲びながら、でも一緒に礼拝に参加しておられるつもりで共に礼拝しているのですから、一種の合同礼拝です。

                               1)
  先ほどの詩編に、「諸国の民よ、これを聞け。この世に住む者は皆、耳を傾けよ。人の子らはすべて豊かな人も貧しい人も」とありました。

  諸国の民、この世に住む人。豊かな者も貧しい者も、若者も年寄りも、全人類はこの事に耳を傾けよと呼びかけているのです。この事とは、「災いのふりかかる日、わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも、どうして恐れることがあろうか。財宝を頼みとし、富の力を誇る者を」という事です。恐れることがあろうか、恐れるなということです。

  この詩編の後半にも、「人に富が増し、その家に名誉が加わるときも」とあり、ここでも、「あなたは恐れることはない」とあります。

  私たちは色々なものを恐れます。地震を恐れ、動物を恐れ、病気を恐れ、死を恐れます。私たちは色々な人も恐れます。特に、人に富が増し、次第に名誉が加わり、有力者、権威者、権力者になるに従って恐れが増していきます。

  だが、豪邸に住む者も有力者も権威者も恐れるな。人間に怯えるな。恐れることはないと励まします。

  理由は、「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか」という事です。死の前では、誰もが全く平等です。これは疑うことのできぬ事実です。私たちは裸で生まれ、裸で帰っていきます。そこにいかなる差別もありません。社長もヒラも、大臣も庶民も同じです。

  私たちは今、周りに無数のお墓がある教会墓地で礼拝をしていますが、ここに佇(たたず)めば、誰しも、「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか」が厳然とした事実であり、真実であることを思わずにおれません。

  青年時代、私は変わり者でお墓が好きでした。よく鎌倉や鶴見のお寺やお墓を巡りました。その時は気付きませんでしたが、今思うと、お墓の前では誰もが平等であったからかも知れません。お墓の前ではなぜか気が休まりました。

  いずれにせよ、「墓穴を見ずに済む」者はいないのであって、誰も恐れる必要はないのです。

         (つづく)

                                        2014年5月11日



                                        板橋大山教会 上垣 勝



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