富に忠実


                         チェルマットの道路標識           (右端クリックで拡大)
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                                            小事に忠実な者は大事にも忠実 (下)
                                            ルカ16章10-13節


                              (2)
  次の11節の、「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」は、不正にまみれた富も仕事も肯定しておられるような口ぶりです。イエスは詐欺や盗みや大型脱税を勧められるでしょうか。そう読むと意味が通じません。イエスはそんなことを言われる訳がないからです。

  ですからここも、先週申しましたように、「不正にまみれた富」と訳すのでなく、幾つかの英訳聖書のように「この世の富」と訳す方が妥当でしょう。

  この世の富に忠実であること。この世の富を毛嫌いせず、それを正しく、公正に用いること。その時、神は、私たちに「本当に価値あるものを任せられる」と言われるのです。この世の富に忠実であれ。だが、それは世の富に飲み込まれ、世の富の僕に、富の奴隷になることではない。富は人を奴隷化する魔力を持ちますが、富に忠実であることと奴隷になることとは違います。

  信仰は泥水を吸ってもそこで花を咲かせる菖蒲(しょうぶ)や蓮の花に似ています。泥水を避けては美しい花を咲かせられません。
  
  富の拒絶ではありませんが、富の貪りでも、富への服従でもない。富の正しい、公正な使用。特に富のできるだけ公平な分配です。国境も民族も言語も超えた隣人愛です。

  富に忠実でなければ、神は、「本当に価値あるものを任せるだろうか」と言われるのです。繰り返しますが、富に忠実であるのとそれに仕えるのとでは雲泥の差があります。「価値あるもの」とは、ギリシャ語で「真のもの、真理」となっています。この世のものに本当に忠実、誠実でなければ、神の真理、キリストの奥義を委ねられない。偽りや欺き、不正をする者たちに、神は真の福音、真理そのものをお任せにならないのです。これは弟子たちに、現今の教会にも語られている警告です。

  いずれにせよ、私たち人類またキリストにある者たちは、富を正しく、公平に、明朗に管理するべきです。不公平が募ると紛争が起こり、真理からも遠ざかり、遠ざけられるでしょう。

  ところで、富と欲はついて回り、私が稼いだものだ、私の努力が生み出したものだという所有意識がつき纏います。当然所有意識があっていいのですが、そこに落とし穴があります。

  単純に言えば、富も能力も神様が私にお与え下さったものであって、私が自分の努力で稼ぎ出した側面はありますが、100%そうだと主張すると富の私物化や執着が強く起こり、共に生きるという公共性が退きます。しかし、富も才も、命同様、本質的には神様から預かっているのです。

  ヤンキースに入った田中将大投手は7年で170億円の契約を結びました。月給が3億7千万円。彼が投げる1球が約60万円の価値があるのだそうです。真面目に考えれば、多くの青年は嫌になっちゃうでしょう。壮年も老年もそうです。単に嫉妬と言えません。あれは、彼の努力だけでなく神が彼に与えた賜物、才能の所以です。そのことを彼が考えなかったら、その人生はいかに富を積み有名になっても、必ず狂うと私は予言したい。

                              (3)
  最後にイエスは、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われました。

  神と富に兼ね仕えることはできません。二艘(そう)の舟に足を掛けるのと同じで、股裂きにあいます。富める青年は二股をかけようとして、悲しみながらイエスから去って行きました。

  だがこの世の富を大胆に用いよ。敵視するな。富を持って隣人を愛し、富を持って隣人に仕える。こう私は申しましたが、イエスの生涯を考えると、イエス様は神の独り子という莫大な富を持ってこの世に来られましたが、その富を持って人に仕え、僕となられました。神の独り子という富を固執せずに僕となられた。それが私たちの主です。「ただ神の栄光のために」というのがイエスのご生涯でした。これが真に富に忠実であることでしょう。

  ですから、イエスを見上げるとき、一生を何のために使うのか。何のために仕え、生きるのかということが私たちのテーマになります。

  「ただ神の栄光のために。」私たちの心がそこに定まる時、心は澄んできます。「ただ神の栄光のために。」その時に、与えられたものに感謝し、与えられたものを喜び、感謝をもって人に仕える者にされるでしょう。そうでなければ明日のことを色々と思い煩い、心がイライラし、澄むどころかしばしば濁ってしまいます。それが愚かな私たちです。だが神の栄光の為に生きる。そこに私たちの心を自由にし、解放するあり方があります。

  自分と自分の考えの栄光、自分の業績の栄光。この世の栄光のためという、ミミチイことを考えている限り、自分の殻を決して打ち破れません。そういうことはもう卒業して「神の栄光のために」生きようと一歩を踏み出すのです。その一歩は今日からでも踏み出せます。

  神と富とに兼ね仕える事は出来ないのです。神の栄光のために。ここにキリストの弟子の喜びと働きがいがある。宗教改革者ルターは、「たとえワラ一本を拾い上げるにも、神の栄光のためになすことができる」というようなことを言っています。先ほど司会者が午後の墓前礼拝のことを祈られました。暫く前に召された方は、50代になって聖書を読み始め、90才になるまでに100回通読されました。格式高い禅宗のお嬢さん、お姫様でしたが、最後はキリストによって救われました。神の栄光のために100回の通読をなさった。色々な問題を抱えつつ、それによって乗り越えていかれました。神の栄光のために、これを知り、ここに生涯の価値を置く者は必ず思い残すことの少ない良き人生を送ることができるのです。

  いずれにせよ、神への信頼が大事です。しばしば申しますが、イザヤ書7章9節にこうあります。「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」元の言葉は、アーメンが2度繰り返されて、「アーメンでなければ、あなた方はアーメンとなされない」となっています。アーメンとは確かであること。岩のごとく確かだということです。

  アーメンと断固信じるのです。すると、アーメン、確かにされていくのです。「ただ神の栄光のために。」それをアーメンとしていく。すると、人生の歩みは、びくともしない大岩のごとく確かにされるのです。


         (完)

                                        2014年5月11日



                                        板橋大山教会 上垣 勝



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