イエスのブラック・ユーモア


                          高原のお花畑。スイス          (右端クリックで拡大)
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                                                この世の子らと光の子ら (下)
                                                ルカ16章1-13節



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  9節は、「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。…」とあります。ここは、「不正にまみれた富」でなく、「世俗の富で友達を」と訳す方が分かりやすいです。幾つかの英語訳はそう訳しています。

  世俗の富を、簡単に「不正にまみれた富」と断罪するのでなく、世俗の富も用いようであって、それを利用しなさいとイエスは言われるのです。

  余り潔癖感が強く、厳密に考え過ぎると、信仰の寛容さがなくなることがあります。イエスの愛の教えでなく、気づくといつの間にか律法の教えに従っているということになりかねません。

  不登校や登校拒否の子どもの問題は色々原因があって単純に言えません。ただ、これには潔癖感と裁き心が一枚かんでいると思います。どういうことかと言いますと、大抵イジメがきっかけで起こりますが、イジメですから当然相手を裁きたくなります。でも潔癖感から、裁いちゃあいけないという歯止めがかかる。すると裁き心は内向し、内攻もします。でもやはりイジメはイジメですからどうしても許せないので裁きます。でもまた潔癖感が頭をもたげて抵抗する…、というふうにグルグル回りをして脱出できない。すると自家中毒症状になり、学校に行きたいが行けないということも重なって、このグルグル回りの蟻地獄から脱出できない。それで、頭では分かっているが行動では反対のことをしてしまうという、パウロの呻きの中に置かれるのです。そんな自分が許せなくて、自我の幼稚さから自罰的に自分を傷つける子どもも生まれます。

  話が逸れましたが、この世の富は不正な富だと決めつけていると、商売はできません。ズルをしなさいというのではありません。ただ、ズルに近い知恵も働かしてはならないとなると、企業活動もしづらい。商売人はクリスチャンになれないでしょう。商売はズルじゃあないが、信頼されて成り立っていると共に、ある意味で、ズルに無限に近い工夫や駆け引きで成り立っている側面があるのじゃあないですか。

  キリスト教徒は、禁酒禁煙、校則を厳しく守り、小笠原流のお家元のように立ち居振る舞いに厳しい潔癖主義と同じではないと思います。むしろキリストは潔癖主義から私たちを抜け出させてくださったのです。

  要するに、この譬えが弟子たちに戒めとして語られているのは、そうなる傾向が弟子たちにあったのでしょう。

  ですから、先ほど申しましたように、9節の「わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」は、「この世の富で友達を作りなさい」と言い換えた方が、誤解が少なくなります。

  「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と訳すから意味が取れなくなって、イエスともあろう人が不正を許すなんておかしい。イエスはおかしいとなります。

  そうではなく、「この世の富で友達を作れ。」この世のものを毛嫌いするな、有効に用いよという事です。先ほどの産業廃棄物であるゴミに隠れている莫大な宝を回収することに似ています。

  今月18日の午後に特別集会が予定されていますが、家内は早速、趣味仲間などに案内しようと思っているようです。「老いと介護」「老人ホームの現場から」という話は、60才以上の人なら必ず関心があるでしょう。

  「この世の富で友達を作れ」ではないですが、家内はそんなことを考えて趣味の会を始めたわけでないが、矢張りこんな時に声を掛けやすいのは事実で、「この世の富で友達を作れ。そうすれば教会の集会に招きやすくなる」、そんな気もしているかも知れません。

  イエスは、「この世の富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と言っておられます。「永遠の住まい」とは何でしょうか。世の富で友を作っておけば、永遠の老人ホームに入れてもらえるというのでしょうか。むろん冗談ですが、ここに最初に申し上げたイエスアイロニーが、ワサビの効いた辛辣な皮肉が漂っていると思います。

  というのは、この「住まい」という言葉は、実は仮小屋やテントを指すギリシャ語です。「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」というと、天国や永遠の命を考えますが、そうじゃありません。イエスは、「この世の富は、永遠の仮小屋に迎えてくれる」と辛辣なブラック・ユーモアを語っておられるのです。

  「永遠の」仮小屋。だが、それは「仮小屋」に過ぎないのです。この世の富はどんなに信頼しても、それほどに過ぎないのです。ただ雨露はしのげますし、一時的な気休めを授けてくれます。だが永遠の平安や救いを与えてくれる訳ではありません。「不正にまみれた富」なら、なお更です。

  だが、そうだからと言って、「この世の富で友達を作りなさい」、この世のものを毛嫌いするな、有効に用いよという先に申しましたイエスの勧めまで、全部否定すべきでしょうか。

  そうではありません。いやむしろ、大胆にこの世の中に、地の塩として、塩味を失わず入っていく。そのことによって、主イエスにあって生きる者が、この世にある存在意味に目覚めて行くことは非常に大事です。

  私たちがキリストによって招かれたのは、そのためであったのではないでしょうか。この世に入り、光の子らとして生きよという事です。すなわち、この世を決して見下げず、この世の人たちを心から愛し、いたわり、この世の人とも肩を組んで、信頼と平和を作り出し、誠実に、真実に、この世で生きていく。そこにキリスト者の使命があるとイエスはおっしゃっているのです。

  この間イースターを迎えました。弟子たちは、イエスの復活を告げた御使いによって、「あなた方は、ガリラヤで主にお会いできる」と告げられました。あなた方の暮らしの場、現実生活から離れた場所でなく、家族や友や仕事場がある身近な場所で、あなた方は復活の主に出会い、そこから全世界に福音を宣べ伝え、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けることになると言われたことと深く関係していることです。

  社会において地の塩、世の光として生きよ。そこで復活の主と出会い、復活の主に励まされて生きよ。

  いずれにせよ、イエスはこの世の中に私たちを遣わされるのです。それは「狼の群れに、羊を送り込むようなもの」かも知れません。だが、恐れるな。蛇のように聡く、鳩のように素直になって生きなさい。あなた方はこの世では悩みがある。だが、私は既にこの世に勝っている。恐るな、怯えるなと言われるのです。


        (完)

                                      2014年5月4日



                                      板橋大山教会 上垣 勝



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