最古の病院がめざしたもの


                        今日、教会の庭に咲いた大輪のバラ      (右端クリックで拡大)
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                                         聞くに早く話すに遅く (下)
                                         ヤコブ1章19-27節


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  次の22節、「御言葉を行う人になりなさい」は、ヤコブ書の中心メッセージです。聞くだけで終わる者になってはいけない。聞くだけで、ああよかった、これでスッキリした、心が晴れただけでは、それは一服の清涼剤に過ぎないでしょう。福音は清涼剤ではありません。

  慰められ、励まされることは大事です。でもそれだけで終わっちゃあいけない。「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」とはどういう意味でしょう。先ほどの、「聞くに早く、話すに遅く、怒るのに遅くありなさい」という御言葉も聞き方や話し方を勧めています。それを聞くと本当にそうだと思い、そのような人になろう、努めようと思います。だがその場から離れると忘れ、いつの間にか面倒臭くなり、知らん顔をしてしまう。これは「欺き」の一種だというのです。手厳しい。

  3月から4月にかけて春の雨が大地を湿らせると、にわかに草花を生じさせ、花を咲かせます。自然は自分を欺きません。だが、悲しい事に人間は聞くだけで終わり、花も実も結ばないことが多い。自分を欺いているからだと、なかなか辛辣です。

  人間は皆、認知症かもしれません。23節以下は、「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」本当に認知症に似ています

  それに対して、真に聴く人は行う人だと語り、彼は一心に御言葉を見つめ、これを守り、忘れず行う人ですというのです。(25節)。「完全な律法」というのは、ここではキリストの福音を指しています。それは自由をもたらします。

  先週ののテゼの集まりで少し申しましたが、私たちは1日に1つ命を与えられる言葉を持てばいいのです。私を生かす一つの御言葉。そんな命の御言葉を与えられれば、1日を十分に生きることができます。多くはいらない。

  星野富弘さんの詩に、ある日、たんぽぽがただ1つのものを持って空を飛んでいくのを見た。私たちも余分のものを捨て、ただ1つのものを持てば、空を飛ぶことができる気がしたよ、というのがありますが、本当だと思います。一心に御言葉を見つめ、単純にこれを忘れず行う人になれば、生き方が自由にされるでしょう。

御言葉が私たちの内に蒔かれると、当然芽を出し、花を咲かせ、実を結ばせる筈なのです。そうすれば「幸せになります」と25節は語ります。ところが立ち去るとすぐ忘れてしまう。やはり認知症ですね。

  26節は、「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です」と述べます。ここに「信心」とあります。他の所では信心でなく、大抵信仰という言葉が使われています。信心と信仰は違うギリシャ語でして、宗教とも訳され、信心深さや、宗教的なお勤めを指します。

  信仰が宗教的お勤めになっていないかというのです。そういう形式的なものは無意味だと、実に辛辣です。ヤコブ書は率直です。ともに同じ主を仰ぐ者であるが故に手厳しいのです。

  2章14節では、「自分は信仰を持っているという者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」と語り、24節では、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」とまで語ります。

  ヤコブ書が、パウロの、信仰義認の教えと矛盾すると言われる所以(ゆえん)です。しかしパウロもガラテヤ書で、「重要なのは、愛によって働く信仰である」と述べて、信仰は愛の行為によって具体的実際的になり実を結ぶと語っていますから、そう矛盾しません。行いがない信仰というのは、熱のない火と同じで現実には存在しないからです。

  最後に、「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」と申します。

  ヤコブ書にとって、愛の実践は神を礼拝することと緊密に関連しています。貧しい人と連帯し世話することは、倫理的に必要なだけでなく、そこでキリストに出会うためです。形式やお勤めを突き破って、キリストに出会う場所だということです。

  先程、歴史に学ぶことの大事さを申しましたが、歴史上最も古い病院、現代的な意味での病院は、西暦372年頃カエサリアのバシレウスという人が建てたものだそうです。無論個人的な治療院のようなものはそれまでもありましたが、本格的な病院は4世紀になって生まれます。

  トルコのカパドキア観光は日本人にも人気がありますが、建物や風景を見るだけでは不十分です。その地でどういう歴史があったか、現在どういう人たちがどんな苦労をして生きているのかに触れることが大事です。

  そのカパドキアで、彼が作った修道院が世界最初の病院でした。ドクターもナースもいました。色々な病棟もあり、図書館も研修プログラムも医学的・薬学的研究もなされました。単なる慈善事業でなく、修道士たちの信仰的・人間的訓練の場であり、人を看護し人に仕えることで神とキリストに出会う場にしたのです。イエスが、「これらの最も小さい者の一人にしたのは、私にしたことである」と言われたからです。

  マザー・テレサカルカッタで貧しい人たちの中の最も貧しい人たちに仕えたのは、彼らの内におられるキリストに仕えようとしたからです。バシレウスはその先駆者です。

  日常の場こそ奉仕の場であり、イエスに出会う場であり、自己訓練の場であると考えたのです。

  今日の私たちも、修道院ではありませんが、私たちは皆この世に召された修道士です。兄弟姉妹、ブラザーやシスターです。プロテスタントはそう考えています。ですから、御言葉に聞くことと人に仕えること、神を礼拝することと生活すること、祈りと行い。これらは互いに補い合い、互いに支え合い、キリストに励まされて、信仰者はこの世で生きるのです。

  御言葉を具体的な愛の行為で翻訳して生きる時に、信仰の言葉は一般の人たちの中に浸透し、御言葉の意味がより理解されるものになるに違いありません。その時には、聖書の言葉は教会を越えて、人々の胸に届くものになるでしょう。

       (完)

                                      2014年4月27日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



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