いい医者は、いい町づくりをしてます


                       ヨーロッパ・アルプスの高原で        (右端クリックで拡大)
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                                         聞くに早く話すに遅く (上)
                                         ヤコブ1章19-27節


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  今の時代は多様な文化、多様な考えが入り混じり、色々なメッセージが私たちに次々届けられるために、何が大事かが分かりにくく、キリストの福音も、神の言葉も聞こえにくくなっています。

  ヤコブ書は、1章1節にあるように、パレスチナから諸外国に散らされた、いわゆるディアスポラキリスト教徒たちに宛てられた手紙ですが、この時代はローマを中心として国際化が進み、色んな民族や国の文化が交じり、国際的な規模で世俗化が進行して、色々な人が次々発信する現代に似た時代でした。そのためヤコブ書は、現代にも共通する問題を扱っていて考えさせられる手紙です。

  まず、ヤコブ書は今日の所で、「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい」と、愛を持って信仰の兄弟姉妹に語ります。愛するゆえに、率直にまた真実に語ろうとするのです。それは、共に同じ主を見上げているからであり、同じ泉から命の水を飲む人たちであるからです。ヤコブ書全体では、私たちは単に御言葉に聞くだけであってはならない。私たちは行為しなければならないと率直に語ります。

  さて19節は続いて、「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです」と語ります。

  今はつぶやきの時代です。ツイッターをしている方っておられますか。え?時間がない。そうですよね。でもパソコンで見ると、今、4千万件ほどのつぶやきが出ます。猫も杓子も皆、聞いて欲しくてたまらない。

  「聞いて、聞いて」って言うのは子どもでしょう。でも今は子どもも大人も自分の話を聞いてもらいたくてたまらないんです。時代は幼児化傾向にあるのかも知れません。そして、じっくり耳を傾けてくれる人が少ない。

  そうした中で、あなた方は世の風潮に呑まれず、よくわきまえて風潮に流されるなと言うのです。確かに、しっかりと人の言葉に耳傾け、その心を聞き取ろうとする。そういう所からこそ新しい文化や生き方が始まるかも知れません。

  今年で私は大山に来て10年目ですが、最近やっと良い医者に出会いました。実によく話を聞いてくれ、それに添った手当を説明をよくした上でしてくれます。惚れましたね、女医さんですし。そこに行くのが楽しみです。何か病気にならないかと…。このような方がいると、いい町に生きていると思います。この町を愛したいと思います。こういうお医者さんの存在というのは、良い町づくりをしていらっしゃるのだとさえ思います。

  「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」じっくり相手の話を聞く人になりなさい。良い聞き手になりなさい。それが人を愛すること。御言葉を行うことですと言おうとしているのでしょう。家でもね。

  相手が十分話し終えるまで耳を傾け、共感して生きる。これはカウンセリングのテクニックを使って生きることではありません。テクニックでなく、生き方そのものがそうであることです。親身に聴き、愛を持って語ることです。テクニックというのは頭でっかちで、身についていないところがあります。

  「聞くに早く」とは、素早く理解することというより、良い耳を持つことです。理解が遅くても、じっくり相手の身になって理解することです。ポーズとして相手の身になることではありません。

  コップに水が一杯入っていれば、新鮮な水を注いでも入りません。新鮮な水を入れるには、まずコップの水をあけ、カラにしなければならない。カラになれば簡単に入ります。当然です。人間関係も同じで、相手が十分語った後はこちらの話に耳を傾けるでしょう。

  身近な人との間でこそ聞く耳を持つことが大事になります。いや、あらゆる社会で、平和を築きそれを維持するには、聞く耳を持つことがどんなに大事か、どれだけ強調しても強調し過ぎることはありません。これは安倍さんに言いたい。あの人って、分かってもらうまで説明するというような言い方をしていますが、まず虚心坦懐に聞くことが先決です。後先が逆です。

  19節は更に、「人の怒りは神の義を実現しないからです」と語ります。これは詩篇103篇の「神は怒るに遅く、憐れみに満ちておられる」(口語訳)という言葉を思い出させます。神の根本に支えられ、それに押し出されて生きる時に、落ち着きも包容力も生まれるということでしょう。

  相手を説き伏せてギャフンと言わせたい。そういう感情に駆られた言葉は、相手を黙らせても、必ずしも相手との良い人間関係築くことになりません。興奮して語る言葉は、返って関係を疎遠にさせかねません。

  「人の怒りは神の義を実現しない」のです。私たちの怒りが神の正しい怒りの代わりにはなりませんし、神が望んでおられる正しさを全うすることは不可能です。むしろ自分を絶対化せず、謙虚に自分を相対化して行く。自分を突き放し、ユーモアを持って対して行く。それの方が神の義に近くなるかも知れません。

  誤解されたり、間違って非難される時は怒りが起こります。そんな時こそ、感情的な怒りは返って関係をこじらせ、自分の心からも平和が失われる場合が多いものです。感情的に怒る代わりに、相手との関係を信じ続けることで、神が働いて下さる場と時を用意することになります。いずれにせよ、人の怒りは神の正しい目的を成し遂げることにはなりません。

  ただ、世の中には無論正当な怒りがあります。幼児虐待があちこちで報じられて心痛みます。社会的弱者や罪なき者に対してなされる不当な虐待や不正に対して、立腹し憤慨すべき正しい理由があります。人の尊厳を傷つけることに見て見ぬ振りをするのは問題でしょう。

  歴史は、私たちの気づかないものが隠されている宝庫です。従ってキリスト教の長い歴史に学ぶことは大切です。「人間の尊厳」と申しましたが、この言葉が最初に語られたのは、5世紀半ばのローマ教皇のクリスマス説教であったと最近知りました。「ああ、人よ、目を覚ませ。そして自分の本性の尊厳を悟れ。あなたが神の似姿として造られたことを思い出せ。この似姿は、たとえアダムによって汚されてしまったとはいえ、キリストによって作り直されたのである。」

  政府は、企業の国際競争力をつけるためという理由で、一般の従業員の残業代を払わなくていい経営者に有利な法案を作れないかと知恵を絞っていますが、国の経済が優先されて、人間の尊厳が損なわれることになりかねません。私たちは目を覚まさなくてはなりません。神の似姿として造られた自分の本性の尊厳を、また隣人の本性の尊厳を悟らなくてはなりません。

  ただ、そうした事においても、感情的な怒りが神の義を全うするかというと、しばしば行き過ぎが起こり、行き過ぎれば反動が帰って来ます。

       (つづく)

                                      2014年4月27日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



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