わたしの心にかなった人


                       ヨーロッパ・アルプスの野原で        (右端クリックで拡大)
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                                           私の心に適う者 (下)
                                           マタイ28章1-20節



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  話は変わりますが、イスラムの女性はベールをかぶります。中には、目だけを出し、全身を黒い布で覆うニカブという服を着る人もあります。黒づくめの目だけ出した忍者のような姿ですが、日本では滅多にお目にかかれません。

  イギリスで今、注目されている裁判の1つは、法廷でニカブを決して取らないイスラム女性の事です。イギリス人は穏健ですからフランスのように禁止しませんが、目だけでは誰だか分からないし、顔や顔の表情は人格を表す重要な箇所だと考える国ですから、被告が法廷でニカブを被ったままで本当にいいのかということです。恐らく日本では、決して許さないでしょう。それだけで不穏分子と見られかねないでしょうね。

  この女性は夫に出会い結婚するまでは、普通の大学生でした。両親はインド西部からの移民で、厳格なキリスト教徒です。だが、父親は経済的困窮から脱するために薬物の密輸入から足を洗えなかったのです。キリストにありながら脱することができなかった。その結果、娘と息子が10代の終わりにイスラム教徒になるのを防げませんでした。娘はやがて夫となるイスラムの男性と結婚し、全身をすっかりニカブで隠すイスラムの中でも最も厳格なイスラム教徒になったのです。

  裁判が進む中で、彼女の夫は爆弾テロをたたえるテロ・グループで活動していることや、彼女は、法廷に出頭したある証人に事実と違う証言をするように脅迫していたことが分かり実刑を言い渡されました。

  この娘さんは、父親を裁きキリスト教も裁いて、イスラムに行くことによって、厳しい戒律の中に自分を置いたのです。だが、それでも不十分という気になったのでしょう、結婚して最も厳格な集団に属し、テロ集団に関係する夫と思いを一つにするに至った。

  それにしても、家庭は厳格なキリスト教なのに父親が不法な密輸から足を洗えない。それが結局息子娘をイスラムに追いやる原因の一つになった訳で、多くのことを考えさせられます。

  洗礼、バプテスマ。沈められること。キリストの死に与かり、キリストの復活に与かる恵み。だが、それが単に形式であるなら何事も起こらないのです。残念ですが、形式ならこの家庭に起こったようなことがどこでも起こらないとも限らないでしょう。

  だからこそパウロは、「五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。自分自身を神に献げ、義のための道具として神に献げなさい」と命じたのです。

  そしてこの御言葉に導かれる時、キリストの復活に与って、それが原動力となり、最初に申しましたように、私たちが義の道具、神の道具として大胆に用いられていくでしょう。

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  イエスも洗礼を受けました。マタイ福音書3章に、イエスヨルダン川バプテスマのヨハネの所に洗礼を受けに行くと、ヨハネは、滅相もない、「私こそあなたから洗礼を受けるべきです」と強く辞退しました。それにも拘らずイエスは、ぜひ洗礼を受けさせて欲しい強く願い、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と語って、ヨハネの前に身を屈めて洗礼を受けられたのです。

  伝道活動を始まる第1歩の時に、止めないで欲しい、人々と同じ洗礼を受けさせて欲しいと言って受けられた。罪なきイエスは、罪の悔い改めの洗礼を受ける必要はなかったのです。だが、万民と等しくなるために敢えて受けさせて欲しいと言われた。ですから、イエスが全ての人と等しくなられたのなら、次に私たちがイエスと等しくなって洗礼を受けるのは自然なことです。こうして、キリスト教会の洗礼はイエスご自身の洗礼に始まり、私たちも洗礼を受け、イエスに繋がるようになったのです。イエスへの信仰と従順の印として洗礼を受けるのです。

  イエスが洗礼を受けて水から上がると、天が開け、「神の霊が鳩のように降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」とあります。暗く曇っていた雲が割れて、青空と共に陽の光が差したのでしょうか。神の霊が鳩のように降ったとあります。すると、洗礼から始まるイエスの公生涯を祝福するかのごとく、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天からしたのです。

  イエスの公生涯はこの洗礼に象徴されています。この時から十字架に至るまで、イエスは低くなり、僕となり、人に仕えられる生活です。最後は十字架で殺され、葬られ、死のバプテスマを受けていかれます。だが3日後復活されます。神による、この死人の中からの復活こそ、洗礼の時、天から聞こえた、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という祝福の成就、また完成でした。イエスの生涯はバプテスマを受ける生活、低く沈められる生活でしたが、復活において、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉が完成したのです。

  私たちの洗礼において、イエスと同じ意味ではありませんが、私たちの上にも、「あなたは私の愛する子。私の心に適う者だ」という言葉が、父と子と聖霊のみ名において語られているのです。私の心に適う者とは、神が喜ばれる者、神が貴く取り扱われる者です。神に愛され、神が「わたしのもの」として下さる者です。

  イザヤ書で神はこう語っておられます。「私はあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない。私はあなたと共にいる神。たじろぐな。私はあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、私の救いの右の手であなたを支える。…恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。…私の目にあなたは価高く、貴く、私はあなたを愛する。」

  神は私たちを愛して「わたしのもの」として下さる。「わたしのもの」です。どんなことがあっても見捨てず、救いと勢いを与えて下さるのです。

       (完)

                                      2014年4月20日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



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