洗礼で焼きが入るの?


                        ヨーロッパ・アルプスの野原で        (右端クリックで拡大)
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                                           私の心に適う者 (中)
                                           マタイ28章1-20節



                              (3)
  女たちはイエスと出会い、これは夢や錯覚でなく確かなことだと確信してエルサレムの弟子たちに知らせたのです。すると弟子たちは、直ちにガリラヤに向かい、かつてイエスが指示しておられた山に行くと、そこでイエスに出会った。

  すると復活のイエスは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語られたとあります。

  これは復活のイエスの宣教命令と言われるものです。イエスは、全世界に伝道に出て行くように、また父と子と聖霊の名によってすべての民に洗礼を授けるようにと命じられたのです。

  私は不思議に思いますが、イエスは神から一切の権能を授かったからでしょうか、2千年のうちに全世界にその愛の教えが広まりました。イエスの愛の教えこそ、民族や言語、国境を越え、地の果てまであまねく妥当し、すべての人の心と社会を希望の光で明るく照らし励ましたのです。確かにイエスの愛は、神の権能を持っているとしか言えないような、世界万民に救いをもたらす不思議な普遍的妥当性を持っています。

  イエスが命じられたのは、「服従させよ」ではありません。「支配せよ」でも、「屈服させよ」でもありません。喜ばしい平和の福音を告げ、喜びのうちに前向きに生きる平和の弟子たちへと導きなさいということです。キリストの福音の力は、そのような真実な力を人間全てに約束しておられるのです。

  そして、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるように。私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と語られました。洗礼というのは、世の終わりまで共にいて下さる復活のキリストが、弟子たちに命じられたことです。

  先程、Aさんが、父と子と聖霊の名によって洗礼をお受けになったのは、キリストのご命令に従われたことです。A兄弟は、父と子と聖霊の名によって、天地万物を造り治められる三位一体の神の名によって、永遠の祝福を授けられたのです。

  洗礼を受けるとは、キリストご自身に結ばれることです。しかも堅く結ばれることです。これは大変根源的なことで、単に教会や教団に結ばれたり、何かの集会に結ばれるのでなく、キリストご自身に直接結ばれ、キリストの愛する弟子にされるのです。

  パウロはローマ書6章で、「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」と語っています。

  洗礼によって、私たちはキリストに結ばれて神の子とされ、キリストの死に与かり古い私たちが葬られるのです。だが葬られたままではありません。神の栄光を受けて復活されたキリストの新しい命に与るのです。言い換えれば、古い私に死ぬことなしの洗礼はありません。だが、キリストにおける新しい私への復活なしの洗礼もありません。私たちがそうするのでなく、キリストがそのようにして下さるのです。

  キリストの死に与ることにより、言わば、焼きが入れられる。焼きが入ると、顕微鏡で見ますと鉄の組織が変化しています。私たちもキリストに基づいた考え方に変化させられるのです。悪や罪、裁きや憎しみ、敵意や喧嘩腰の生き方から、愛と赦し、信頼と平和、和解と喜びのあり方へと変えられ、新しく造られ復活させられるのです。

  パウロは更に言います。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。…わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」

  洗礼、バプテスマは沈められるという意味です。洗礼によって水に沈められ、古い自分がキリストと共に殺され、殺戮される。そして、「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなる」とあるとおり、キリストの甦りに与って、新しい私に復活させられるのです。ですから、私たちにある可能性は、キリストに在って新しく生きることです。ここに私たちの明日に向かっての新しい可能性と目標があります。

  パウロはこう言います。「キリストに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。…あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を…神に献げ、五体を義のための道具として神に献げなさい。」

  説明は不要でしょう。不義のための道具でなく、義のための道具、神のための道具として、五体を使いなさい。パウロは洗礼を受けた人たちにこう言って勧めました。


       (つづく)

                                      2014年4月20日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



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