富の偏在の中で
アルプスの野草 (右端クリックで拡大)
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あなたの道に光がさす (下)
詩編119篇89-112節
ヨハネ福音書8章12節
(3)
洗礼を受けて何かが変わるでしょうか。人それぞれですが、長い間には御言葉がその方を変えて行くでしょう。私の場合は、少しずつ光が差し込みました。錆び付いた重い鉄の扉が、ギギーっと軋みながら音を立てて開かれるように、人生の扉が開かれ、光が次第に差し込んで来ました。10年もすると、「あなたはあの時の上垣さんですか」と驚かれるようになりました。そう言われて本当に当惑しました。
トマトは陽に当てておくと色づきますが、キリストの光に照らされ続けると私たちも変えられるのです。変えて下さるのです。全く変わらない人はないでしょう。本人が気づかないだけかも知れません。
イエスが十字架に付けられた時、「昼の12時になると全地が暗くなり、3時まで続いた」と3つの福音書に書かれています。皆既日食が起こったとも言われています。
その真偽はともかくも、闇が襲ったが、イエスにとっては闇も闇でないのです。闇も昼も光を放ち、闇も光も変わることがないのです。イエスの中から永遠の命の光が輝いているからです。だから、イエスはヨハネ福音書8章12節で、「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われたのです。
キリストの十字架。その時、全地は暗くなったが、十字架から世界に光が差し始めたのです。それは救いの光であり、悩みを持つ者、苦労する者を慰め、勇気づける光です。この世からでなく、未来の彼岸から差す光です。
コリント後書4章は、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」と語ります。
「このような宝」とは、イエスの命です。その命の光です。それを土の器に納めているので、打倒されても滅ぼれないのです。
今年度の総会が礼拝後に開かれます。多くの人が心配しているように、時代の右傾化が進み、国の骨格となる平和憲法が揺らいでいます。また、進みかけた脱原発政策が後退し、原発の被災者救済も後回しになりつつあります。また社会一般では、一部の成功者が莫大な富を稼ぎまくり、大勢の若者が臨時社員のワーキング・プアとして貶(おとし)められ、格差が広がって社会の不安定化が増しています。富の偏在が激しく、プロ野球選手が一年で何十億円も稼ぐ異常な時代ですがマスコミも何も言いません。
暗い時代ですが、私たちの教会は、「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と語られるキリストの福音に耳傾けて前進したいと思います。世の闇に耳傾けるのではありません。世の光に耳を傾けるのです。闇の力を圧倒する明るい命の光に照らされ、イエスの光の約束を、忍耐を持って信じて行きましょう。闇に耳を傾けると恐怖が起こります。しかし光に目を向ければ足元は確かになり、安心して歩けます。
私たちはどんな状況に置かれても、キリストの光を忘れてはなりません。私たちを暗闇の中を歩かないようにして下さるお方に従い、命の光を授けられて、今年度を歩みたいと思います。
(完)
2014年4月13日
板橋大山教会 上垣 勝
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