永遠の助監督


                          チューリッヒ市立美術館で
                               ・



                                            監督について (下)
                                            Ⅰテモテ3章1-7節



                              (3)
  次の「一人の妻の夫であり」は「ただ一人の妻の夫」であること、つまり一夫多妻を禁じているかも知れません。ある英訳では、ただ一回の結婚をしている夫とありました。そうだと離婚禁止の意味を持ちます。要するに監督は、結婚の誓約をしっかりと守る節操ある人物であること。妾(めかけ)や何人も側室をもつ、身辺のだらしない人物であってはならぬという事です。

  監督は妻帯者です。神父さんのように独身者ではない。また女性の監督はオミットされています。2千年前です。日本ではまだ石の斧を持って獣を追い掛け回していた時代です。今日のように、女性が聖職者になれる時代ではありません。

  次の、「節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず…。」言い直せば、監督は自分に厳しく、穏やかで、思慮があり、節度を持ち、口も硬い。思いやりがあり、親切である。大酒飲みでなく、暴力的でなく、喧嘩っ早くない。むしろ平和的である。金銭に強欲でなくケチでない人。一言で言えば、自分自身をよくコントロールしている人であることです。

  後で申しますが、セルフ・コントロールをするには、先ずキリストによって自らを治めて頂くことが肝要です。牧師の中に喧嘩っ早い人や大酒飲みがいますが、キリストに治められる必要がありますね。牧師だけではありません。私たちは皆、キリストに治めて頂かなければならない。

  こう語って、「自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか」と語ります。

  ここは牧師たちには特に耳が痛いです。今だからお話できますが、子どもたちの育ち盛りの頃、本当に悩みました。子どもたちを従順な者に育てることができない。妻もうまく治められない自分に、どうして牧師ができるかと悩みました。牧師の中には、夫婦喧嘩しているのに教会を治められる筈がないと落ち込み、悩む人が沢山います。夫婦仲が悪く、家の中で口をきかない2人は家庭内別居状態なのに、どうして和解の福音が説けるでしょう。私も自分を責める自信喪失の日々でした。恥ずかしい限りですが、もっと従順な妻ならどんなに良いだろうと…。滅相もない、いい妻ですから…。

  「家庭をよく治め」とは、上手に、うまく取り扱うという言葉が使われています。ただ、巧みに操縦するという悪い意味にもなります。すると、妻や夫をうまく操縦するということになりかねません。

  だが真の意味は、人為的操作でなく、家族を愛しうまくマネージすることです。そうするには、自分自身をうまくコントロールし、管理できていなければならないという事です。ましてや、家族の意見を圧殺したり、封殺したり、締め付けたりすることではありません。これは教会においてもそうでしょう。

  次に、「監督は、信仰に入って間もない人ではいけない。…それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねない」と警告します。人間は知らぬ間に増長しがちです。能力があるといっても、人間的に成熟していないことがあります。10代、20代で高度なIT技術を持っている。すると40、50代は手が出せない。じゃあ、技術が上だから若い人が上司になる。ところが人間的に成熟していないので、職場がおかしくなる。今日でも起こりかねないことです。

  「更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければならない」と語ります。この手紙が書かれたのは、教会が迫害されていた時代です。タダでも巧妙に罠を仕掛けて来る社会です。少しの言葉尻を捉えられるかも知れません。安易に口実を与えてしまえば、取り返しがつかないことになる危険性があります。

  ですから、監督は教会内だけの狭い了見でなく、広い視野と見識を持ち、一般の人にもある程度の評判を得ている人、信頼を受けている人でなければならない。そうして初めて一般社会にキリスト教信仰が浸透していくことができると言いたいのです。

                              (4)
  今日の箇所に何も触れられていませんが、今語られた監督の資格や倫理的なことは、1章18、19節の「信仰と正しい良心とを持って、雄々しく戦いなさい。」という事の具体的展開であり実践です。その具体的展開が、先ず2章1節の「そこで、まず第1に勧めます」になり、8節以下の「だから、私が望むのは、男は怒らず争わず…」になり、今日の「監督の資格」になるわけです。

  肝心要の大前提がここでは隠されている訳です。大前提とは、監督はイエス・キリストを常に思う人であることです。キリストを慕う人であること。著者は、自分は罪人の最たる者、罪人のかしらであるが、イエス・キリストから憐れみを受け、限りない忍耐を示して頂いた。だから、キリストの恵みに浴し続けることにより、人々の手本となるためであると語っています。そういうキリストへの愛です。心からキリストを慕う気持ちです。

  ですから、監督の最も大事な資質は、キリストの限りない忍耐と憐れみに基づき、永遠の救いを求めている人たちの手本になろうとすること。そこに監督の生き様の中心を置くことです。全ての人の贖いとして、ご自身をお献げくださったキリストの愛を、わが身を通して指し示し、証しようとする人であることだと言いたいのです。

  色々申しましたが、監督は、自分は「非の打ち所がない」、完全無欠な存在で、その教会の頂点に立つ者だと考えるのでなく、真の監督はイエスのみであり、自分はその下にいる永遠の助監督である。だから、キリストによって自らを治めて頂くことが必要であり、キリストによって治めていただく時にのみ、他をも治めることができる。自分が砕かれないでどうして他を治めることができようかという事です。

  この監督は牧師を指すと解釈してきましたが、Church leaderというのですから、もしかすれば教会の信徒代表を指すかも知れません。信徒代表は信徒を代表して北支区総会に出たり、東京教区総会に出席したりします。そこでの発言は教会を代表する発言と見なされます。信徒代表は普通は教会書記役員ですが、役員会の誰もが信徒代表になる可能性があります。実際に代表して支区や教区総会に出席しています。

  ですから真面目に申しますが、役員の皆さんは、自ら信仰の研鑽に励んで頂きたいと思います。祈りにおいて、聖書に養われることにおいて、自己訓練をしていきましょう。そこに心を尽くすのです。聖書の勉強です。神の前に出て祈る習慣です。それが一時挫折しても、また挑んで始めて行く。一生挑戦です。一生勉強です。

  丁度、来週は役員選挙がありますが、そういう思いを持って誰しもキリストの下にいて、教会リーダーになって頂きたいと思います。役員だけでなく、キリストに従っていきたいと思う人は誰でも、私たちの力でなく、願いを持てばキリストがそうして下さるのです。そういう貴い、高潔な、名誉ある、良い仕事を担う力を与えて下さるように、皆が祈り求めていきましょう。

       (完)

                                      2014年4月6日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


                               ・