老子は剛や強を戒めました


                          チューリッヒ市立美術館で
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                                            監督について (中)
                                            Ⅰテモテ3章1-7節



                              (2)
  次に、「監督は、非のうちどころがなく」とありますが、あまり肩肘張って堅く考えちゃあいけません。完璧な人とか、100%完全無欠な人という意味ではない。「非の打ち所がない」と訳すと、その職務を完璧なものに釣り上げて見がちですが、そうでなく、一般的意味で非難されない人、非難されることの少ない人です。

  聖書を離れますが、最近私は、「墨書必携」という書家たちが持っている聖書ほどある分厚い本を手に入れました。中国の古い名句や名文が載っていて、書家たちはここから文章を取って教えたり、書を書いているようです。

  その中に漢の時代の崔 子玉(さい・しぎょく)という人の座右の銘というのがあります。「人の短を言うことなかれ、己の長を説くことなかれ」、他人の短所や過失について悪口してはならぬ。自分の手柄や得意を自慢してはならぬという言葉で始まる長い座右の銘です。自分への戒めとして書いています。白楽天白居易)はこの人の座右の銘を部屋に掲げていたようです。その中に、「柔弱(じゅうじゃく)は生の徒、老子は剛強を誡む」という言葉があります。意味は、柔弱(じゅうじゃくと読みます);柔らかく弱いものこそ生命に満ちているものの仲間である。孔子老子老子は、剛や強を、頑固、頑強、剛強なものを戒めたと言うのです。

  完璧や100%完全無欠。そういうものより、柔らかく柔軟なもの、自らの弱さを知る者こそ、2節、3節にある、節制も分別も客へのもてなしも寛容も生まれるのでないかと思います。

  「柔弱は生の徒、老子は剛強を誡む」の後に、「行行(ぎょうぎょう)として剛強なのはつまらぬ男の志である。悠々としている者は、その奥底は量り難く知り尽くせない」という意味の言葉が続きます。仰々(ぎょうぎょう)しく強そうに威張るのは実につまらぬ男だ。人間が小さいから威張るのだという事です。教えられます。

  聖書を中国の言葉で解釈するのは木に竹を接ぐような場違いがありますが、ただ、テモテ1章で著者は、自分は罪人のかしらだと言っています。罪人のかしらだと自認する人がこれを書いているわけで、完璧や完全無欠という意味の「非の打ち所のない」ことを、まさか監督に要求しているのではないでしょう。

       (つづく)

                                      2014年4月6日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



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