監督について


                          チューリッヒ市立美術館
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                                            監督について (上)
                                            Ⅰテモテ3章1-7節



                              (序)
  田中将大は粘りましたね。7回まで投げて勝利投手になりました。日本から大リーグのヤンキースに移籍し、最初のマウンドでトップバッターからいきなりホームランを打たれました。しかも2回にも2点を許しました。でもヤンキースの監督は彼を降板させなかった。粘って8三振を奪い、3回からは完封した田中も凄かったが、私は、この監督は凄いと思いました。新聞は監督のことは何も言っていませんが、あの監督の我慢強さ、信頼、采配というのは際立っていたと思います。

  今日の題は「監督について」です。監督というのは私たちの身近なところで殆どいませんが、ヤンキースの監督のことを考えると、課長とか、部長、社長、あるいは係長でもいいですが、監督的立場にある者がどういう考えを持って他に接するかは大変重要だと思いました。

  今日の聖書の監督は、教団全体や幾つかの教会の監督でなく、単数形で書かれていますが、1教会の監督を指しています。元の言葉は、世話係、群れを管理し見張る者、保護する者を指します。

  私は長老主義の伝統を持つ教会にいた事も、メソジストの伝統の教会にいた事もあります。組合教会の伝統を持つ牧師たちとも親しくしていました。長老主義では、牧師を宣教長老と呼び、信徒の長老を教会を治める長老という意味で治会長老と呼んで、牧師はもっぱら説教に携わる長老としています。この監督はそういう狭い理解ではありません。教会の宣教も治会も管理も雑多に含む職務のようで、牧師を指す牧会者というのが一番近いと思いますが、5章には「御言葉と教えのために苦労している長老」という言葉が出てきますから、そっちの方が牧師に近いとも考えられます。

  この監督が牧師を指すとなると、「非の打ち所がなく」とあってキツイですね。それに、「自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか」という言葉の前に、私は身が小さくなって、牧師を指す言葉だという解釈を極力避けたい思いです。

  でも、ある英訳聖書ははっきりChurch leader 教会リーダーと訳していますから、牧師と取る解釈は避けるわけにいきません。ですから、「良薬、口に苦し」と思って、牧師だけでありませんが、牧師にも向けられたこととして読みたいと思います。

  まず、「この言葉は真実です」という言葉は、どこに掛かるのか。新共同訳聖書は、これまで2章で語って来たことを指して、今語った言葉は真実ですと解釈していますが、私は、これから語られる言葉は真実ですと保証しているのだと考えています。実際、ある英訳聖書は「この諺は真実です」と訳して、次のカッコの中の、「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる」という当時教会の中に流布していた言葉を一種の諺とみなして、これは真実だと訳しています。

                              (1)
  では、「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる」とはどういうことでしょう。良い仕事というと、今日では、地位が高く報酬が多い仕事と取る人があるかも知れません。ストレスの少ない仕事と取る人もあるでしょう。

  しかし、この良い仕事とは経済的なことを言うのでなく、意味のある仕事や、貴い、高潔な、崇高な、名誉職ではありませんが名誉ある仕事という意味です。お金ではない。それは、キリストに近く侍(はべ)って、常に群れのどこかにおられるキリストを見失わず群れを励ますと共に、まず自分自身がキリストの導きを受けていく職務であるから、極めて意味のある仕事なのです。いつもキリストによって砕かれ、謙虚にされると共に、常に恵みに与かり、喜びを授けられる務めであるからです。キリストは頑固な自分をも砕いて下さるほどに真剣に自分を愛して下さる。そのような愛を知りうること以上にいい仕事はありません。

  新しい年度を迎えて新しい仕事になった方もあるでしょうが、どんな仕事にも苦労はあります。だが苦労があるから、しっかり担うのです。自分が困難なものは、他の人が担っても困難です。ですから、自分の担わなければならない中心的なもの、その仕事の核心的なものから逸れないように根気よく追っていく。子どもたちは、「ゴミ言葉など言わないで!」、何て言います。ゴミのような仕事や雑用がありますが、雑用をしていても根本的なものを見失わない。するといつの間にか、中々誰しも担えないものを担っていて、振り返れば良い仕事をしているという事があります。今申し上げているのは、ここにある監督の仕事だけではありません。皆さんの仕事も同じだと思います。

  良い仕事になるかどうか、貴い仕事になるかどうかは、担う人の担い方によって決まると言ってもいいでしょう。イエス様は「この杯が飲めるか」と弟子たちに聞かれました。イエスにとっての杯は十字架です。苦き杯です。その杯はご自分のための杯ではありません。人類が負っている罪の杯です。それを代わって飲み干された。最後の一滴まで飲み干された。人々の前でのショーや演技でなく、父なる神の御心への素朴な従順としてそれをされた。

  その苦き杯を、その中身を知りながら最後の一滴まで飲み干すことによって、多くの人に希望を与えられました。

  画家のゴッホの人生は、大変悲惨で辛く、父の後を継いで牧師になるが、父からも見放されたようです。貧しい炭鉱労働者への伝道師となったが人々に受け入れられず、教会から追放同然になります。いかに辛く、人生に行き詰ったことでしょう。

  だが、やがて画家になり、貧しさにも拘らず、自分の天職は絵を描くことだと一点の疑いも抱かず信じ続けて、命尽きるまで絵を描いて行きました。彼は、自分の人生の苦き杯を飲み干したのです。それが多くの人を力づけました。日本人の多くはゴッホが好きですが、彼のあり方に励まされるのではないでしょうか。

  彼はこの世から撥(は)ねつけられ、居場所がなく、小さな惨めな存在でしたが、自分に与えられた杯を飲み干すことによって主を証ししたのです。伝道者であり続ける以上に画家として主を証ししました。

  イエスは、カナの結婚式で水をぶどう酒に変えて栄光を現されました。僕たちは、イエスに言われるままに懸命に井戸から水を汲んで運びました。すると、苦き労働も、味のない水も、いつの間にか馥郁と香りを放つ貴いぶどう酒に変えられていたのです。

  監督は、そういう意味でのよい仕事だと語るのです。


       (つづく)

                                      2014年4月6日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



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