ピカソを超えるもの


                    チューリッヒ市立美術館にはムンクの絵が沢山あります
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                                             真理とは何か (下)
                                             ヨハネ18章33-38節


                              (3)
  さてここに、真理という事が2人の間でやり取りされています。イエスは、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われ、ピラトは、「真理とは何か」と切り返したのです。そして群衆の方に出て行った。

  この時、ピラトの心に何が起こったのでしょう。こう言うや、すぐに外へ出たのは、彼が立腹したからだとも想像できます。だが外へ出た彼は38節で、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と断言しています。ですから、官邸に戻ってイエスとまた真理問答を続けようとしていたとも想像できるでしょう。

  しかし、外に出て群衆とやり取りする内に、動揺させられて気持ちが変わり、やり取りは19章半ばまで続きますが、結局、「イエスでなく、バラバを釈放せよ」との怒声に負けてイエスを十字架につける判決を下します。19章に入ると、兵士らはイエスの頭に茨の冠を編んでかぶらせ、嘲笑し、情け容赦ない仕打ちで愚弄しますが、ピラトは止めません。神の子羊、メシア、キリスト、救い主に対する、兵士らの情け容赦ない乱暴狼藉にもかかわらず見て見ぬふりをします。

  ところで、今日の所から19章の判決に至るまでに、ピラトは官邸から出たり入ったり10回程繰り返しています。まるで落ち着かず巣から出たり入ったりする小鳥のような姿です。彼は、「真理とは何か」と問いました。だが彼の行動が表したのはその無定見の露呈であり、群衆の要求に弄ばれ、真理も良心もローマ法も捨てて判決を下す姿です。

  私が育った家は江戸時代に生まれた神道系の宗教でした。その宗教は他の日本の宗教と似たり寄ったりで、人間関係を大事にした生き方を説きました。それはそれで学ぶことがありました。中高生時代は、夏になると「幹部候補生講習」と称するキャンプにしばしば参加しました。しかし、その中心に、どんな岩石によっても割れぬような堅固な真理はありませんでした。私にはそれが感じられなかった。

  ニーチェは、血で裏付けされぬ言葉を私は決して信じないと言いましたが、私がその宗教を離れたのは、根本的なことが欠如しているためでした。たとえ十字架に架かっても断固、証するような真理や真実はなかったのです。

  だが聖書とキリストには、確かな真理が、十字架の出来事によって語る真実な言葉がありました。私にとっては、ここに永遠の真理があったのです。この真理は、暗い世界の中に星のように明るく輝いていました。そして、いかなる闇もこの真理に勝てないものでした。

  ヘブライ書9章は、「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」と語ります。イエスの十字架を証しているわけです。イエスが血を流されることによって、私たちの罪の赦しがある。このイエスの愛が私たちの心を打つのです。ですから、「キリストの血は、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝させるようにさせないでしょうか」とあります。キリスト教信仰の中心に、血で裏付けされ、血で贖い取られた信頼できる真理があると本当に思います。その真理が私の心を決定的に打ったのです。

  確かな真理があるから、そこから、「罪と戦って、血を流すまでに抵抗する」とヘブライ書にある在り方が生まれるのです。イエスが罪と戦い、血で裏付けされた真理を語ってくださらなければ、私は多分自分に絡みついた、醜い、多くの罪から救い出されることは決してなかったでしょう。

  ピラトは「真理とは何か」と問い、問いながら群衆の声に負けて良心を貫けませんでした。政治家にとっては、真理はその時々の力のバランスで決まるものです。だが真理は神にあるのです。神は真理を明らかにされるのです。真理は、真理自らの力によって証明されるのです。真理は自己証明力を持つのです。隠されているもので現れないものはないとある通りです。そしてキリストは十字架に架かるまでして、真理を証しされたのです。

  ピカソに「ゲルニカ」という作品があります。大抵の方はご存知でしょう。空爆を受けて馬も牛も絶叫し、被弾した子供を抱く女性が泣き叫び、人々の首はちぎれて上や下を向いて叫んでいる奇抜な絵です。あれは、スペインの小さなゲルニカの町に空爆によって降りかかった悲しい大惨事を描いたものだそうです。

  それだけでなく、現代社会が持つ不安、世界が粉々に壊れ、バラバラになり、終末的な恐ろしい状況を呈してしまった世界を表現していると言われます。だからピカソの絵を見ると、不安に駆られるのです。不条理な世界を小説にしたカフカや、ムンク「叫び」とも通じる世界です。

  だが最近私が思うのは、ピカソが描いた粉々になりバラバラになってしまった世界。これは、原発事故のために先祖伝来の住み慣れた農地を捨て、家族がバラバラにならざるを得ない今の世界も暗示しているでしょう。ゲルニカは現代を象徴しているかも知れませんが、私たちに必要なのはバラバラになってしまった世界を修復し、回復する真理です。そういう命の力こそ大切であるということです。バラバラになり、壊れてしまった地球の実情を知り、それを表現したり、時には糾弾するすることも大事ですが、それ以上に大事なのはそれを癒し、手当し、回復する真理です。それがなければ人は喜びも平和も信頼も尊敬も与えられません。暗い絶望のみです。

  だが、イエスは命に満ち溢れたその真理を証するために生まれ、そのためにこの世に来られたのです。十字架の真理は、世界回復の真理はここにあると私たちに語るのです。

  ピラトは、ローマ帝国内のいかなる所にあってもローマ法に基づいて政治をすると確信していました。だが実際は、彼の信念も群衆のパワーバランスによって阻止されました。

  「真理とは何か」という彼の言葉は、もしかすると、彼が薄々感じていた、彼の考える真理に対する隠れた不安を表していたかも知れません。本当の真理を知りたいという、口には出せないでいるが心の深層に芽生えている政治家の切なる思いだったかも知れません。

        (完)

                                      2014年3月30日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



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