人は複雑に考えたがる


                            石神井川の語らい
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                                             真理とは何か (中)
                                             ヨハネ18章33-38節


                              (2)
  「わたしの国は、この世には属していない。」これは別の言葉で言えば、イエスは政治的救済者として来たのでなく、罪からの人々の救い、救済のために来られたということです。すなわち、私たちの人生の根本的な所での変革のために来られたのであって、政治的クーデターを起こすためではないという事です。もし政治的メシアとして来たのなら、私の部下たちが、イエスには部下でなくいるのは弟子たちですが、政治的メシアなら部下たちが戦ったでしょう。

  だが、イエスは十字架につく神を証するために来られたのです。十字架につけられるのでなく、自ら十字架についていかれ、人々に仕え、人々に与え、殺され、神への芳しい供え物となるために来られた。権力や暴力や強制力で人を仕えさせ、奴隷のようにイエスの宗教に従わせる神でなく、人間を宗教的権威からも、政治的権威や野望からも自由にし、個人の欲望からも解き放って解放する権威を、ご自分が十字架に架かることによってもたらすためです。

  残酷さ、非情な冷たい力、強制力、暴力は、イエスとその神の国には無縁です。それはピラトの国、この世の国とは違います。ピラトやローマの力は神の存在を世に証することになりません。イエスが証された神の国は無防備な愛です。無防備に誰をも愛されます。私たちが愛するより先に、見返りを求めず私たちを愛されます。鳩のように、幼子のように神に対して従順であり素直であられました。そういう在り方においてイエスは神を最もよく指し示す王なる方でした。

  「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われました。コヘレトの言葉に、「神は人間をまっすぐに造られたが。人間は複雑な考え方をしたがる」とあります。確かに私たちは単純なことなのに複雑に考えすぎ、自ら不安になったり混乱してしまいがちです。だが神がお造りくださったように、私たちが単純に、素直に、真っ直ぐになれば、イエスが生涯をかけて言葉と業を持って語られた愛の言葉、全ての人の贖いとしてご自分を神に捧げられた愛の言葉が、胸に響いてくるのではないでしょうか。

        (つづく)

                                      2014年3月30日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



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