ユニークな対話


                        ムンク作、チューリッヒ市立美術館
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                                             真理とは何か (上)
                                             ヨハネ18章33-38節


                              (序)
  今日の箇所にはユニークな対話が残されています。松明をかかげ、イスカリオテのユダに先導されてやって来た、ゲッセマネの園でイエスを逮捕した人々が、先ず大祭司の屋敷にイエスを連行し、次に、早朝にユダヤの総督ピラトのところに連行しました。距離ですれば5、600mの所にある総督官邸です。

  ピラトは彼らを歓迎しませんでした。29節以下にあるように、少しの問答の後、31節で、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と語って突き返そうとしました。

  彼の判断では、イエスの事件は純粋にユダヤの宗教内の事柄であり、ローマ総督の関知しない事であったからです。彼は法律家でもありますから、ローマ法によれば、客観的にこれはローマ政府が関与すべき問題ではなかったのです。

  だが告発者たちは、直ちに、「私たちには、人を死刑にする権限がありません」と、ローマ総督の支配下では、死刑を執行する権限が自分たちに与えられていません。あなたが判決を下し、処刑してくださらなければなりませんと食い下がったのです。

  それでイエスの運命は総督ピラトの手に委ねられたのです。渋々裁かねばならないピラトの前に、イエスはただ一人で立たれ、ここにピラトとのユニークな対話がなされたのです。これは個人的な対話でなく、国家と宗教の対話、この世と神との対話とも言うべき興味をそそられる特別なやり取りです。

                              (1)
  先ずピラトは、「お前がユダヤ人の王なのか」と、ズバリ問題の核心に迫る尋問から始めています。この質問から、彼はユダヤ総督として常に地域の動向から目を逸らすことのない有能な人物だったことが分かります。

  イエスはそれに直接答えられず、「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と別の質問をされたのです。一見、はぐらかしたかのような言葉です。しかしよく考えると、イエスの応答は非常に深いところまでピラトの心を探っておられます。イエスは、総督ピラトに対して負けておられず対等です。これは中々生易しいことではありません。ピラトという人物がどういう人間かを、事実を聞き、事実に従って見ようとされたのです。

  しかし、彼はイエスに対して上下関係で見ています。ユダヤ総督ですから当然かも知れませんが、一人の人間としてイエスに接することが出来ていません。ここに国家の限界が暗示されています。

  イエスは、あなたは私に対して、どういう関わり方をしようとしているのですか。あなたの問は、あなた自身の質問であるのか、それとも、他の人たちの質問を単に繰り返しているだけなのですかと、問うておられるのです。

  これは大事なことです。あなたは私を誰と言うのか。あなたは私を誰として接したいのですか。これは大切です。他の人たちの意見、考えを後から繰り返しているだけではイエスと出会うことになりません。他の人の追随でなく、イエスは私の主、私を統べ治めてくださる恵みの王として受け入れるときに、その豊かなご人格に接することができるからです。

  イエスはピラトに対しても、神に造られた一人の人間として、愛を込めて対しようとしておられたことが分かります。もしピラトがこの時、ローマの最高の教育を受けた教養人としてイエスに出会っていたら、世界の歴史は大変面白いものに展開していたでしょう。

  色々な本の読み方があります。沢山の本を次々読む人たちもあります。今は情報の時代ですから、最新の情報から取り残されないために、専門書は無論のこと、一般書でも一生懸命付いていこうとして読みます。そういう読み方も一つのあり方です。しかし情報の洪水に圧倒され、自分の意見が作れない程読む人たちもあります。それで、この人はこう言っている、あの人はああ言っていると、人々の意見の紹介に終わって、責任ある自分の考えを持てないのです。

  だがイエスは、それはあなたの考えですかと尋ねて、彼の心を見ようとされたのです。すなわち、彼の心と出会おうとされた。非常に興味ある瞬間です。

  するとピラトは、「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ」と、イエスと距離を保って客観的に答えながら、「いったい何をしでかしたのか」と横柄にイエスに迫っていきます。先ほど申しましたように、上下関係で見ている。それでイエスの前に裸の人間として出ることができないのです。

  そこでイエスは、「私の国は、この世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない」と語られました。

  この答えも一見はぐらかすようで、意味が不鮮明で分かりにくいところがあります。ただ、明らかなのは、イエスはこの言葉によって、この場面に全く新しい視点を持ち込まれたことです。

  すなわち、あなたはローマ皇帝カイザルとその帝国を代表するとすれば、自分もまた一つの国を代表しています。自分は今、あなたの裁きの前でたった一人で立っていますが、私はこの世に由来しない、神の国を代表して立っているのですということです。

  本来なら、キリストの国によって、神のよってピラトの国やこの世が審判されるべきです。だがこの場では、キリストの国が、神が、ピラトの国によって、人間によって審判されようとしているという、逆説的なことが起こっているのです。これは一種のユーモアです。神のユーモアです。小なるものが大なるものを真面目に裁こうとしているからです。人間が神を裁いている。ところが、偽ものが、真なるものを裁くということがこの世では起こるのです。

  次元は違いますが、袴田事件もその一つかも知れません。国家が無実な人を死刑囚に仕立て、48年間も取り下げない訳でしょう。ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」に大審問官を登場させていますが、そこでは、宗教組織を守るために真理が捨てられていくという世の姿が描かれています。いずれにせよ、大なるものの前で、小なるものが演じる滑稽さが、イエスとピラトのユニークな対話の場面に顔を見せています。

        (つづく)

                                      2014年3月30日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



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