お金でなくスピリットを継いでね


                          チューリッヒ市立美術館で
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                                         弟は生き返ったのだ (下)
                                         ルカ15章25-32節



                              (4)
  兄の言い分をじっと聞いていた父は、最後に申しました。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」

  あれは、お前の弟だ。お前と血を分けて生まれ育った兄弟だ。お前の言うように私の息子ではある。だが、そう言って、あれを突き放してしまうな。他にはいない「我が弟」として、愛を持って迎えてあげようではないか。財産を分けた今は、私のものは全部お前のものだ。私とお前は一体だ。あいつが娼婦どもと騒いで大切な財産をフイにしたのは残念だ。私もお前同様、激しく怒っている。だがそのことと、悔い改めて帰って来たのとは別の話だ。あれは、死んでいたのに生き返ったのだ。いなくなっていたのに見つかったのだ。これを喜ばないテはないだろう。

  父は先入観や色眼鏡で見ていないのです。その場で一番必要なことを行なう現実主義者です。愛からできるだけ情緒を取り除けば、人間性溢れる成熟した現実主義的行動ということになるでしょう。

  更に父の言い分を言うなら、私はすっかりお前に家のことを任せている。だから、私の考えを、私の心を、私の肝心な精神を継いで欲しい。そこにこそ私の全財産、全遺産がある。

  前の教会で、多くの財産を残して93才で召された方がありました。人格的にも立派な方で有名な医者でしたが、息子さん4人も医者になり、眼科医、内科医、外科医、泌尿器科医として名をなしておられます。特に外科医の方は優れた方です。孫たちも医者。余りにも多くの参列者があるだろうというので、幸い、晩年は県外の息子さんの所でおられたので、新聞に広告を出さず家族だけで、ご長男が出席している近くの教会の牧師さんに短く司式をして頂いて密葬し、後日、私がいた教会で正式な葬儀をされました。

  密葬でその牧師が、「皆さんに、莫大な遺産を残されました」と言われました。私は無論、その信仰の兄弟をよく知っていますから、土地だけでも数億円か、数十億円を頭に思い描きました。するとその牧師は続けて、「莫大な遺産とは信仰という遺産です。これを継いで頂きたい」と言われたのです。

  今日の聖書の父は、財産だけを継いでも、父の精神を、自分の魂を継がなければ、家庭は祝福されないと兄に言っているのです。律法主義というのは法という財産だけ継いでいる。だが父なる神の御心、その精神が落ちている。その大事なものを継いでいないのです。兄の言葉によって、彼の中に最も大切なものが抜け落ちていること。それがないなら、全てがフイになってしまうあるものがこぼれ落ちていることが明らかになったのです。

  それは、コリント前書13章が語る、「たとえ、人々や天使たちの言葉を語ろうとも、愛がなければ騒がしいドラ。たとえ、預言する力を持ち、あらゆる知識に通じ、完全な信仰を持っていようと、愛がなければ無に等しい。全財産を貧しい人のために使い尽くそうと、愛がなければ、何の益もない」という事です。信仰があっても愛がなければ、無に等しい。凄いです。皆が感動し、うっとりするような素晴らしい言葉を語って、愛がなければそんなものは何の益もない。幾ら出世し金を沢山儲けても、その家に愛がなければ実に空しいと言います。

  この意味では、兄もまた父に背を向け迷い出た1匹の羊であり、失われた銀貨であり、父の財産を無駄にする放蕩息子の1人です。兄もまた悔い改めが必要です。「私は天に対しても、父に対しても、罪を犯しました。息子と呼ばれる資格はありません」と、弟同様に罪の告白がいります。「自分は、何が正しいか、何が家の掟かを考えて行動していましたが、あなたの広い愛、真実なまことの愛を知りませんでした」という告白です。

  今の若い人たちはかなり焦っているのでないかと思います。30才の女性研究者は、余りにも成果を出すことを求められる世の風潮の中で、万能細胞の競争をさせられたのかも知れません。その中で、科学者として守るべき倫理を逸脱してしまった。科学者の一番大切なものがこぼれ落ちてしまった。気の毒です。

  ただこの風潮は今の日本社会をかなり覆っていませんでしょうか。人への敬意や尊敬を持つのが道徳の根幹でしょう。だが、それを国民に押し付けるだけで、口振りから、担当大臣その人が持っていないように見受けられます。これはルールだ、規則だ、法だと息巻いて、一つの町の教育に国家が直接介入し、町の教育委員会や先生たちの自主的判断に介入し、先生たちの自主的判断への敬意や尊敬を、自分は持とうとしないように見えます。上からだけのもの言いです。科学の倫理が揺らいでいると共に、教育の倫理の根幹が揺らいでいるのではないでしょうか。律法主義になっている。

  この父は、「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と語ったのです。祝宴とか喜ぶとか言われている言葉は、ギリシャ語でユーフライノーと言います。喜び祝う、楽しむ、祝宴を開くという意味です。

  今年は2度にわたって大雪が降り、丁度日曜日にかかって礼拝に来れない方々がいました。所がその次の日曜日、坂を上がって来られる方々のお顔は喜びで輝いていました。挨拶を交わされる声はお祭りに集う人の声のように華やいでいました。80代、90代の方が普段より足取り軽く坂道を登って来られました。

  教会の礼拝は、救われた罪人たちの祝宴なのです。帰って来た放蕩息子たちを喜び迎える父なる神のお祝い。音楽は讃美歌です。祝いのスピーチは説教です。ダンスはなくても、楽器はあります。礼拝は祭りであり、フェスティバルです。ですから、英訳聖書には、Celebration, Festivity, Feast と言った、お祭りや楽しい祝祭を表す言葉が幾つもここに出てきます。礼拝に、今日は何が聞けるだろうと、喜びを抱いていそいそ吸い寄せられて来る教会。それがまことの礼拝です。礼拝から楽しみやお祭り性がなくなり、難しい謹厳な言葉の講義や律法的な言葉が語られるだけでは、信徒の命は枯渇します。

  15章を学んで来ましたが、「1人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」「大きな喜びが天にある」といった言葉がキー・ワードとして出て来ました。神は、悔い改めて帰って来る者を歓声を上げて迎えて下さり、何ものにも替え難い祝いが天で催される。天での喜び、祝いですから、誰にも奪われることのない永遠の喜びであり祝いです。父なる神のもとに帰る。それは洗礼を指し示します。「父と子と聖霊のみ名によって」、1人の人が洗礼を受ける時、地上での喜びと共に天上で大きな歓声が巻き起こっているのです。

  悔い改めはメソメソした湿った後悔ではありません。そこには喜びが溢れ、祝いがあり、新しい出発があります。神は、真に悔い改めた者を用いていかれる方です。罪を犯した者をも用いられます。罪を勧めているのではありませんが、罪をトコトン知る者であればあるほど返って豊かに用いられるでしょう。

      (完)

                                      2014年3月16日



                                      板橋大山教会 上垣 勝



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