必ず分るようになる


                       ムンク作、チューリッヒ市立美術館で
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                                         弟は生き返ったのだ (中)
                                         ルカ15章25-32節



                              (2)
  兄は、「あなたのあの息子が、身上を食いつぶし」と言いました。彼の怒りは、弟だけでなく、父にも向けられていることが、ここから分かります。あれはあなたの息子です。あんな奴と私は関係ありません。あなたの責任でこうなったんです。言葉で言いませんが、父を貶(おとし)める言葉が、口から出かかっています。あなたは私には厳しいのに、あなたのあの息子には甘い。甘すぎると言いたいのでしょう。

  更に言うなら、私は長年、辛抱に辛抱を重ねて、あなたの言いつけを守り、奴隷のように仕えて来ました。仕えさせられて来ましたと言いたいのです。

  ここに律法学者やファリサイ人たちの問題性が煮詰まっています。それは裁きの問題です。彼らは律法や法律、規則に熱心です。一見、筋が通っているようなことを言います。いや、普通目には筋が通っているのです。神に対して、あるいは真理に対して忠実です。ただ、忠実この上ないのです。余りにも忠実なのです。そして愛がない。

  だから、他の人達を裁きます。忠実だという自覚がありますから、自分は正しい、忠実だという自覚が、鼻の先にぶら下がっていますから、一層、情け容赦なく他の人達を裁く。これは家庭でも職場でも起こります。国全体がこうなることもあります。隣組が、異端者が出ないかを見張るのです。上からの通達を盾(たて)に目を光らすのです。

  律法学者もファリサイ人も、喜びや感謝から真理に対して忠実だという面が全くないわけでありませんが、一皮剥(む)けば仕えさせられているという義務感が強い。義務感が強い分、これは絶対の真理だからお前たちも絶対に従えという気持ちになり易い。ですから律法主義やファリサイ主義は軍隊式に、命令主義になりやすい。

  だから、徴税人や罪人に対しては頭から軽蔑しますし、彼らと接すれば汚れると決めつけて、交わりも対話もしないし、絶対受け入れない。対話し彼らと接するのは、法を破ることだとさえ考えています。

  ですから、イエスがそういう人たちと愛を持って交わり、そういう人がイエスの話を聞こうと沢山集まって来ましたから、2節にありましたように、彼らは強く不平を述べたのです。

                              (3)
  父は、兄には厳格な父であったでしょう。なぜなら、財産だけでなく、この家の家訓というか精神、そのスピリットの上に立って、旧民法の言葉ですが家督を継がせなければならないからです。ですから兄は人一倍厳しくしつけられたに違いありません。

  兄の言葉から明らかになったのは、兄は弟に腹を立てているばかりでなく、父の後継者ですが、父の心を知ろうとしていないことです。それは、弟が父の心を理解せず財産を無駄使いしたのと根は同じです。兄は父の言いつけに背かず少しも無駄遣いして来なかったですが、兄の方も父が苦労してきたのは家族への愛やもっと人間の本質に根ざすもののためであったことを理解していないのです。

  無論、言いつけを守ることは大事ですが、弟の帰還を共に喜び祝うこと。自分と共に弟を愛してくれることが父の心です。そのスピリットをまだ理解していない。一緒に何年も弟より長くいるのに、父親の財産の3分の2を受け取っているのに、未だ父の一番大事にしていることを自分のものにしていないのです。これが律法主義の問題です。神の律法を守っている。だが表面的なのです。白く塗りたる墓の如しで、表面は整っていますが真に神の心を理解していないし、愛がないのです。

  父は、稼ぎや経済のためだけに働いて来たのではないのです。この譬えに、「肥えた子牛」という言葉が何度も出て来ますが、兄はこの言葉をテコにして父親をも責めていきます。彼の頭には、肥え太らせて来た飛び切り高い値段で売れるこの子牛、金銭のことしかありません。だが、父親が働いて来たのは、愛のため、家族を愛し、人間らしい人間として子どもたちを育てるためです。従って、厳格な父は、憐れみ深い父にもなります。心破れ、ボロボロになって帰ってきた次男にさえ、惜しまず良質の子牛さえ屠って祝宴を催し喜び迎える父は、兄にはなお一層、心にかけ、愛情と憐れみを注いで来た筈です。

  従って、放蕩息子は弟だけでなかったのです。兄の方も、精神的には父の心を理解して来なかった放蕩息子です。ところが放蕩息子の弟の方は、挫折し、悔い改め、心身共にボロボロになって父のもとに帰って来て、父に抱き抱えられて迎えられ、上等の着物と父の子どもである印を意味する指輪まではめられて、初めて父の心を深く理解したのです。悔いつつ父の心を知った。後の者が先になったのです。

  むろん弟は、これほどまで赦され、迎えられても、父の心をまだ十分理解しなかったかも知れません。しかし、父の心と出会った出会いの体験によって、必ずやがて分かるようになるでしょう。自分のためにこれ程まで犠牲を払って迎えてくれたのだからです。今、分からなくても、後で必ず分かる筈です。イエスの一番弟子のペトロも、イエスの十字架の時に裏切って、そこからイエスの愛が分かり激しく泣いたのでなかったでしょうか。だがこの愛が、その後の伝道の情熱となって迸(ほとばし)り出ました。

      (つづく)

                                      2014年3月16日



                                      板橋大山教会 上垣 勝



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