白豚との戯れ


                     誰の絵でしたっけ?チューリッヒ市立美術館で
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                                         さあ、指輪をはめて!
                                         ルカ15章11-24節
        

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  放蕩息子の譬えを、2回に分けて考えてみたいと思いますが、先ず、ここに登場する弟は、来週扱う兄と比べ機転が利きます。うまく立ち回って、父から遺産の取り分を貰って、外国に旅立ったのです。

  彼は父の死を待っていたのでしょう。だがなかなか死んでくれない。痺(しび)れを切らし、生前贈与をして欲しいと願ったのです。遺産を貰うとは、むろん親のものを貰うわけですが、彼には、親と人格的に交わり、親から教わり、吸収しようというような態度はなく、ただ貰う分しか頭になかった。父も父です。息子の性格を知っていた筈なのに、2人に分けてやった。死んでからより、生きている間の方がありがたがられると思ってでしょうか。

  大勢の雇い人がいたとあります。土地、不動産、沢山の家畜、現金を合わせれば相当の財産でしょう。当時、兄は3分の2、弟は3分の1と決まっていました。兄は弟の2倍です。

  受け取ると、弟は「何日もたたないうちに」とありますが、テキパキとすっかり現金に換え、遠い国に行ってしまった。父母を看取る気なんてありませんね。そもそも財産を貰ってすぐ現金に換えるのは、父に恥をかかせること、父の顔に泥を塗ることでした。

  遺産というのは一体何でしょう。残して、どれだけ真に感謝されるでしょうか。「思ったより沢山あったのね」とか、「どうしてこれっぽっちなの」と言われて、やがて忘れられるのが親でしょうか。ですから、コヘレト2章は辛辣です。「太陽の下でしたこの労苦の結果を、私はすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。…太陽の下で私が知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。」著者は今なら60才以上でしょうね。子育てが終わり、世の悲哀をよく知る人が書いています。

  肉親への遺産だけでありません。会社を興して、やがてその会社を誰かが継ぎます。だが継いだ人間が、創業者の意向に全く沿わず、元の木阿弥にする場合があるのです。それだけでなく、戦後の平和憲法下の日本という大事な遺産が―これは世界知的文化遺産として残す価値があります―、もしかするとすっかり、失われるかも知れない危機的状態にあるのが、現在です。

  息子は、家族の目に止まらない遠くの国で、放蕩の限りを尽くしました。よろしくない不良仲間、心浮き浮きする魅力的な女性たちに、湯水のように貢いで遊び呆けたのです。貰い受けたものは、自分が苦労し汗水たらして稼いだものではありません。あぶく銭(ぜに)同然です。金離れが良く、交友関係がうまいとなると、男も女もどんどん集まって来ます。

  だが、遺産には限りがあります。それが尽きると、男も女も1人離れ、2人離れ、やがて全部いなくなったのです。

  イギリスで何年か前に、何億円だったかのロッタリー、大型宝籤に当たった夫婦がありました。大喜びで、豪華な邸宅を買い、スイスかどこかに別荘も買い、豪華客船のクルーズも楽しみ、贅を尽くした豪勢な暮らしをやっていたようです。ところが10年もしないうちに財産が尽き、それでも小さい家だけが残り、去年、2人は離婚しました。夫婦のどちらかが、「元の自分に戻り、今やっと、ホッとしました」と述べていました。

  ですから、放蕩息子の話は全くの作り話とは言えません。2千年前と同じく、今日でもどこかで起こっているかも知れない話です。

  遺産を使い果たせば、働きさえすればいいと安易に考えたのでしょう。ところが想定外のことが起こりました。ひどい飢饉で働き場がなく、頼んでも雇ってくれない。バブルがはじけ、暫くしてリーマン・ショックが起こり、続いて大震災が起こった。「彼は食べるにも困り始めた」のです。

  今、日本の全労働者の何と38%、約4割が非正規社員、臨時社員です。4割です。国民を、不安定な塗炭の苦しみに置いた政府の罪責は大きいと言わなければなりません。大企業の正社員の給料はこの春、数千円上がるようです。だが、臨時職員は同じ仕事をしているのに20円か30円上がるだけです。多くの若者は、「バカらしい」と思っている筈です。退職金の方は、ないか、あってもごく僅かです。

  幸い男は、身を寄せる所がありました。ほっと一息つきました。だが知人の家に身を寄せうるのは、せいぜい数週間でしょう。

  で、身を寄せた家の主人は、彼を「畑にやって豚の世話をさせた」のです。豚はギリシャ・ローマでは聖なる獣、聖獣です。だがユダヤ人には最も忌み嫌うべき動物で、食用にも、祭壇にも捧げられません。彼はユダヤ人ですから、宗教的に身を汚しながら豚飼いの重労働の仕事をした。3Kの職場です。だが、「豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人は誰もいなかった」のです。

  彼は、これまで何人もの、柔らかい白い肌の女性たちと戯れていましたが、まさか、白毛の何十頭もの臭い豚たちと戯れ、格闘することになるとは思いも寄らなかったでしょう。黒豚もいたでしょうが…。

  いなご豆をご存知でしょうか。私は引き出しにイスラエル土産のそれを、3重、4重にビニール袋に入れて保管しています。臭いったらありません。豚はサヤごと食べますが、人が食べるときは豆しか食べれませんが、サヤは大きいのに豆はごく小粒ですから、何百と皮をむいても腹を決して満たせません。

  彼は父から莫大な財産を貰って、この町で暮らし始めたのでした。しかしそのうち、お金が尽きてしまいました。私たちがこうして生きているのは、本来、父なる神様から、体と心と精神、全てのものを頂いたから、それを使って生きていけるのでしょう。これらは自分のものと考えていますが、身体も知性も感情も、私たちの人生の素材は全て神からの頂き物です。また、私たちが故郷としている地球と呼ばれるこの惑星、この資源、この環境も一切、主なる神様から頂いたものです。あるいは預かったものです。

  40年程前、1972年にローマ・クラブが、「成長の限界」ということを語って警告を鳴らしました。当初はあまり本気で考えられませんでしたが、年を経るにつれ真実味を帯びて来ました。「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、百年以内に地球上の成長は限界に達する。」人類の成長に限界があるのです。このまま続ければ資源が尽きてしまうのです。人類はやがて成長の限界に達することを踏まえて理性的に生きなければ、人間というのは食物がなくなり、空腹になればイライラして争いが増え、火がつけば戦争に発展しますから、それが起こらないように政治家は外交努力を惜しんではなりません。それが21世紀の政治の運転手の責務です。

        (つづく)

                                      2014年3月9日




                                      板橋大山教会 上垣 勝



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