男女の考えがブレンドされると


                      何を思いますか…、チューリッヒ市立美術館で 
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                                          男と女 (4)
                                          Ⅰテモテ2章8-3章1節


  (前回、前々回からお読みください。)

                              (3)
  これは、今日でも大体受け入れられるでしょう。だが、次の部分からグングンおかしくなります。「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。」今もカトリックは女性聖職者を禁じています。許しません。ローマの権威に繋がるには男性でなければ困難で、女性は静かにしているべきです。別の理由ですが、日本は女性の社会進出が先進国中、際立って遅れています。翻って、家事の手伝いを進んでする男性は極めて少数ですね。かくいう我が家は…。70年代の初頭、学生時代に乳児を大学に連れて行っていましたが、今も…?

  この箇所は、女が男の上に立ってはならぬ理由、静かにすべき理由として、「なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます」と語ります。一部の男性はニヤリとするかも知れませんが、大抵の女性は頭に来る所でしょう。

  女3人集まればかしましいと言われます。姦(かしま)しいという漢字は女を3つ書きます。日本だけでなく、古代中国人もそう考えたのでしょう。世界共通かも知れません。そのことと、女は、静かに従順に学ぶべき、婦人が教えたり男の上に立つのを許さない。慎ましく、貞淑に、静かに、静かにしているべきだという戒めとは隔たりがあります。イエスの言葉でなく、当時のギリシャ・ローマの一般風習に従わせようとしています。

  大山教会の祈祷会で思うのは、次から次へ婦人たちが姦しいくらいに意見や話題を出して、聖書の内容が深められて行く素晴らしさです。この手紙の書き手は、静かに、静かにと繰り返しますが、女性だから思いつく考えがあること。その素晴らしさに気づいていません。更に女性、男性いかんに関わらず、人により色んな考えを持っていて、男女の違いを超えた考え方がブレンドされると、教会がより豊かにされる事の善さを、この著者は知らないようです。ただ余りに姦しくて、本題から逸れて単なるおしゃべりになるので、祈祷会では手綱で強く引き締めねばならないことがありますね。

  このアダムとエバの解釈は強引過ぎます。こういう解釈でなく、アダムこそ、園の中央の木から取って食べるなと神から命じられた張本人なのに、エバの誘いに乗って食べてしまった。だから、神の命令を直接聞いた彼が、エバを止めなかった所に問題の発端があると言えます。女が悪い、女が騙された、女が罪を犯した。女は劣ったものという偏見が先にあります。問題は、神は最初から女を男よりも低く造られたから、神のその創造秩序に従わねばならぬという歪んだ人間観です。

  パウロは、男なしに女はない。女なしに男はないと語っています。キリストにあっては、もはや男も女もないと語ります。所がこの手紙は、キリストから来る価値観でなく、ギリシャ・ローマの一般社会の価値観を直接採用しているのです。

  「婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます」に至っては言葉も出ません。これは、旧約のユダヤ教の歪んだ価値観です。

  これでは女性独身者は救われません。私たちは、「信仰によってのみ救われる」のであって、「子を産むことによって救われる」のではありません。この「救われる」という言葉は、ちょっと別のニュアンスも含む気がしますが、信仰の「救い」を指す言葉が使われています。いずれにせよ、子どもを産むことが救いの条件ではない。これは、キリスト教信仰の核心部分と正面衝突します。更に、イエス様は、「結婚できないように生まれついた者、結婚できないようにされた者、その他自分から進んで結婚しない者がある」と言われました。イエスにおいては、結婚や出産が救いの条件でありません。もし今の時代にこの手紙の著者がいれば、あの発言は間違っていました、取り消しますと、赤面しながら詫びるのでないかと私は思っています。

  このように古代社会に書かれたために男尊女卑の考えが強いですが、2千年前にも関わらず、他の宗教と比較すれば、今のイスラムのような、結婚すれば、妻は夫のもの、「夫の所有物」であるという考えはここにありません。(すべてのイスラム教徒がそう考えているとは、私は未だ信じられませんが。)何が原因か、日本でも暫く前まで、「あれは俺のもの」という考えがありました。

  「夫の所有物」であるという考えが、どんなに怖いものか…。パキスタンでは今も、妻が夫に少し反対したという理由だけで、濃硫酸を顔に掛けられる事件が多発しています。加害者たちは、イスラムの教えでは、妻は夫の所有物だから何をしても構わないという理屈を述べています。濃硫酸がどんなに恐ろしいか皆さんはご存知ないでしょうが、私は高校時代も、会社でも扱いました。濃硫酸に虫を入れれば、一瞬で死に、暫くすると溶けるものもあります。濃硫酸と硝酸を混ぜた王水ならさらに酷く、金さえ溶かします。

  従って、顔に濃硫酸を浴びせられれば、二度と見たくない程醜い火傷になります。ある婦人は夫に濃硫酸を掛けられ、ガソリンを撒かれて火を付けられました。江戸赤坂の恐ろしい「のっぺらぼう」の怪談がありますが、この婦人は、目が潰れ、顔半分がのっぺらぼうの、余りにも恐ろしい不気味な顔になっています。だが、金持ちや有力者は金を払えば男は釈放されるのです。

  長くなりましたので、最後にお話したいのは、私たちは皆、女か男です。いるのは女と男です。アダムとエバの物語は、男と女が互いに響きあって生きるように造られたと語っています。あの物語では、神が、アダムの前に連れて来られた動物たちと、彼は響き合うことはなかったのです。

  真の魂の響き合い。美しい響き合い。神様はそのために人を、女と男として、女か男かにお造りになったのです。協力し、連帯し、助け合うため。裁き合いや憎み合うためでなく、慰め合い、支え合い、愛と一致に向かい、補い合うように私たち人間は作られているという事です。

  そして男にとっての女、女にとっての男の中に、どうしてこうなのだと不思議に思わせられ、惹かれる存在がいるという所に神の創造の妙があります。

          (完)


                                      2014年3月2日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



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