修道女に言うんじゃありませんよ


            B.Bellotto作「東側から見るクロイツ聖堂の残骸」、チューリッヒ市立美術館で 
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                                          男と女 (2)
                                          Ⅰテモテ2章8-3章1節


  (前回からお読みください。)

  では、なぜそう語るのか。その理由が重要です。

  それが、「だから」という冒頭の言葉で示されています。これは、先週の6節にありましたように、キリストは「すべての人の贖(あがな)いとしてご自身を献げられ」たからです。だから「怒らず争わず」ありなさいと勧められている。「キリストの贖い」は段落を超えて、この新しい段落でも重要な意味を持ち、その贖いは、私たちのあらゆる日常生活に影響を与えて来るからです。

  先週は、イザヤ書43章の「恐れるな、私はあなたを贖った。あなたは私のもの」という言葉からも、贖いの意味を学びましたが、キリストの贖いを受ける時、私たちの恐れも不安もキリストが吸い取って下さる。罪も過ちもマイナスもすっかりご自分に吸い取って、代わりにキリストの平和を私たちに与え、神の前に新しい私を備えて下さるということでした。

  「男は怒らず争わず」ということは、キリストの贖いに裏打ちされて、初めて生まれて来るものであり、「私は平和をあなた方に残し、私の平和を与える」と言われたキリストの平和に与って初めて、不安や怒りの深い深淵が埋められて、平和が、また他者への尊敬が生まれて来るのです。

  ですから、「だから」というこの小さな接続詞を軽く見てはならないのです。これはドアの蝶番(ちょうつがい)のように、蝶番は小さいですが部屋の開閉の重要な任務を担って、前のものを次へ引き継いでいます。

  旧約聖書預言者たちは、社会正義の実現を切に願い、情熱を傾けてその実現に尽しました。ところが彼らは、自分自身の不完全さにも苦しむ繊細な心の持ち主でした。イザヤにしても、エレミヤにしても然り。彼らは不正を糾(ただ)しながら、自らの愚かさ、弱さにも目覚める人間でした。

  そういう意味においても、キリストの贖いを必要とし、それを根拠にして生きる私たちは、自分の魂を吟味すると共に、他者の魂、その弱さや彼が持つ重荷への思いやりと共感なしに、正義を振りかざすことがあってはならないでしょう。イエス様は「自らの内に塩を持ちなさい」とおっしゃいましたが、外でなく自分の内側こそまず糾されなければならない。

  キリストの贖いはすべての人のためであったという所から来る、他者への敬意、尊敬です。キリストに培(つちか)われての、その深い人間への洞察から、「男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈りなさい」ということが生まれるのです。

  「清い手を上げてどこででも祈る」ということは、気前良くあり、出し惜しみしないことです。公平であり、無私であること。混じり気のない純粋な愛を持って祈ることです。勇敢であることも含むでしょう。無論これも、先程の「ご自身を贖いとして捧げられたキリスト」から湧き出てくるものです。キリストご自身が、公平で、出しおしみせず、無私であられた。勇敢でもあられました。

  どこででも清い手を上げて祈るには、勇気がいります。教会のどの部屋、どの場所であっても、ではありません。レストランに入っても、病院の大部屋にお見舞いに行っても、です。

  最近、知恵遅れの障がいを持つ孫のAの言葉がハッキリし出して、驚いています。あと一年で、普通学級か養護学校特殊学級かを決めなければならず、どれだけ知能と言葉が発達してくれるか。家内は毎週のように療育に連れて行きます。これまでの長い園長の経験はこのためにあったのかと、親はもっと大変ですが、今この子に家内は全力を注いでいます。また皆さんが温かく接して下さることを感謝しています。

  家内はAと療育のために時々大学に行きますが、療育に来ている親子皆で、大学の食堂で昼食を食べることがあります。この間は、昼食前に家内は手洗いに行き、10分か15分、長かったようですが、他の親子は食べ終わる人もあったのに、Aはその間、一緒にいてくれた療育のスタッフとテーブルで食べずに待っていたそうで、待つという心も育って来たので感謝です。やがて家内が戻って、スタッフもいる所でAと食前の祈りをしたそうです。清い手は上げなかったようです。スタッフもいるテーブルで、言葉を出してお祈りした。それを聞いて私は、ヘエ、勇気があると惚れ直し、いや、歳をとると厚かましくなるんです。ただ、私なら、照れ隠しで誤魔化したでしょう。

  それでこの勧めは、勇気ある男であれ、気前いいと同時に雄々しくあれ、ということでしょう。

                              (2)
  次に婦人に対して、「婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません…」とあります。修道女に言っているのじゃありませんよ。

  「髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはならない。」銀座のミキモトや和光、グッチ、ティファニーなんてお店に行っちゃあダメ。銀座だけでなく、大山の美容室にも行っちゃあダメ。教会に来る婦人は、千円のへヤー・カット店で済ませなさいということにならないとも限りません。これは、戦後すぐなら聞きごたえもありますが、今日そのまま説けば、若い女性も主婦も教会を敬遠するでしょうね。

          (つづく)


                                      2014年3月2日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



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