男よ、怒らず争わず、平和の人であれ


                      (部分) チューリッヒ市立美術館で 
                               ・


                                          男と女 (1)
                                          Ⅰテモテ2章8-3章1節


                              (序)
  今日の聖書を聞かれて、聖書にこんな所があるのだ。これは酷い、と思われた方があるのでないでしょうか。私は、特に後半は酷いと思います。私もここはショックを受けますので、ショックを受けた方はお一人でありませんので安心ください。聖書には、まれに当時の一般社会の影響を色濃く受けた、今では時代錯誤と思える箇所があります。ただ、九牛の一毛と言えばいいでしょうか。9匹の牛の僅か一本の毛のために9匹の牛全体を否定するのはおかしいわけで、聖書の僅かなキズのために、聖書全体まで投げ捨てる愚かなことをしてはいけません。こんな箇所があっても、聖書の真髄に出会って、びくともせずに乗り越えていきましょう。

  今日流に言えばこれは女性差別です。後で申しますが、パウロの発言とも衝突しますし、イエス様の考えとも大きい隔たりがあります。従来言われて来たように、これはパウロの手紙でなく、パウロの言葉も沢山含まれているが、パウロ時代よりかなり後に、パウロの名を借りて書かれた手紙だと考えていいでしょう。

  まずこのことを申し上げて内容に入って行きたいと思います。

                              (1)
  さて、最初は男について、「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです」とあります。これには異論ありません。

  これまで、怒りやすく、争いやすい男性を私は数多く見て来ました。そういう私も、青年時代は怒りやすく、争いやすくありました。闘争心や敵対心が、ドロドロしたマグマのように、腹の底に真っ赤に燃えていました。何かを言う時は、まず相手の言葉を否定して語ることもありました。相手とほぼ同じ考えなのに、勝ちたいために相手を否定することもありましたね。本当の意味での自信がなかったからです。自分との和解が出来ていないので、温かく大きく相手を包むところが少なかった。それは申し訳ないことですが、ここに息子もいますが、子育てにも影響したと、後悔するところがあります。今でも若者の中に、自分以外は皆ライバルというような人を見かけますが、それはシンドイ生き方です。自分の反省からそう思います。

  それに対し8節は、「男は怒らず争わず」、平和の人であれと語るのです。穏やかで、人への敬意を持って生きる人であれ。感情的であるな、喧嘩っ早くあるなと言うのです。

  では、なぜそう語るのか。その理由が重要です。

          (つづく)

                                      2014年3月2日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


                               ・