平穏で落ち着いた生活


                       E.Manet。 チューリッヒ市立美術館で。
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                                           すべての人の贖い (上)
                                           Ⅰテモテ2章5-7節


                              (序)
  2週続きの珍しい大雪で礼拝にいらっしゃれなかった方々も、今日は、AさんやBさんにもお元気にお目にかかれて嬉しく思います。2週間お会いしないと寂しいし、またどうしていらっしゃるかと案じます。本当に神の家族ですね。

  先週の1節から4節では、「すべての人々のため」の執り成しの祈りが勧められていました。また、神は「すべての人々が救われて真理を知る」ようになるのを望んでおられるとありました。この「すべての人々」という言葉に特別な意味が隠されていること。キリスト教徒だけの救いを望んでおられないということでした。

  また、「私たちが、常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活をするためである」と書かれて、先週は「平穏で落ち着いた生活」という題でお話いたしましたが、こうした落ち着いた生活は、神のみ前に「良いこと、喜ばれること」だと語っていました。

  その背景には、当時は迫害が激しく、教会が必要以上に迫害を受けないように、できるだけ社会に受け入れられ、平穏で落ち着いた生活が送れるようにという願いがあったと思います。そのために、「王たちやすべての高官のためにも祈りを捧げなさい」と付け加えられたのでしょう。

  今日はその続きになりますが、今日の箇所で、先週Cさんが祈られたことも語られています。

  「平穏で落ち着いた生活」はどうすれば得られるのかという事です。当時はローマ帝国の時代です。その帝国内で「平穏で落ち着いた生活」を送るためには、社会的外的に平和であることが望ましいことですが、それと共に内面的な平和が必要です。そこでこの内面的な側面ですが、「平穏で落ち着いた生活」が良いことであり、真理だというのは分かるが、頭で分かりながら、私たちは自分の内側に平穏や落ち着きを失い、不安な、気持ちのざわめきがあるのを発見する訳です。心の中に穴がポッカリ空いていることも感じる訳で、それは「信心と品位を保つ」ということでも同様のことが言えると思います。

  言葉を変えて言えば、大地にドッシリ足をつけた生活。自己満足や自己義認でなく、「あなたはそれでいいのだ」と神様から認められるような安心した生活。喜びや平和や感謝や勇気が力強く生まれてくる生活は、どうすれば得られるのかということでしょう。魂の渇きが深いところからすっかり満たされて、安心して落ち着いた生活を送るには、どうすればいいのかという事です。

  今日の箇所は、そのことに対して述べていると言って良いでしょう。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」ここに、私たちの心の渇きを鎮め、喜びや感謝で満たして下さる唯一の方がおられると語るのです。

         (つづく)

                                      2014年2月23日




                                      板橋大山教会 上垣 勝



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