代理の祈り


                    「イエスと姦淫の女」チューリッヒ市立美術館で
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                                         平穏で落ち着いた生活 (上)
                                         Ⅰテモテ2章1-5節


                              (序)
  「平穏で落ち着いた生活。」これは殆んどの人が願っていることではないでしょうか。若い人たちも、日々追われるような忙しい生活から解放され、もう少しゆとりのある落ち着いた自分の時間を持ちたいと思っているでしょう。色々な分野で重責を担っている人たちも、多忙な日々の中で、家族とゆっくり落ち着いた時間を過ごす日々を待っていることでしょう。高齢の方は、将来への不安がない平穏な日々を長く送ることができれば最高に幸せです。

  聖書を知らない方でも、今日の、「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送る…。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」という言葉を聞けば、キリスト教は意外と健全なことを言っていると、聖書が説くところに興味を示すかも知れません。

  ここに、信心とあるのは、神を畏れ敬い、真理を尊ぶ敬虔な生活です。品位とあるのは、品のある、人格的価値を保つ生活のこと。また平穏とは、外部の力によって乱されない、安らかな、安堵できる生活。落ち着いた生活とは、内面の統一から来る、落ち着きのある穏やかな生活です。

  闘いや葛藤の多い生活、苦渋に満ちたストレスの多い生活ではありません。平和で安心でき、平穏で落ち着いた、喜びのある人生です。これは神が喜ばれることであり、神が「よし」とされることだというのです。

  創世記には、神話的な語りぐちで、神が全世界をお造りになった時、一日毎に造られたものをご覧になり、「神はよしとされた」と書かれています。更に、6日間の創造を終えてご覧になると、それは「極めてよかった」と書かれています。神は世界を「よいもの」にお造りになり、それを喜ばれたのです。エデンは喜びという意味ですが、不安やストレスでなく、平穏と落ち着きのある良い世界をお造りになった。これが、本来、神が意図された、私たちが誕生し、成長し、他の人達と共に暮らし、やがて去っていく世界です。

  神がよしとされた世界。ここに神の真理があります。神はまた、私たちに命を授けられた根源である方ですから、全ての人がこの根源的な真理を知って救われることを望んでおられるのです。

                              (1)
  さて、先週の1章の最後には、「雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とを持って」とありました。雄々しく戦うというと、正義や人権を阻止する勢力と雄々しく戦うことなど、生活の様々な戦い、更には平和や戦争回避のために戦うなどを連想するかも知れません。

  ところが2章に入ると、「そこで、まず第一に勧めます」と語り、「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」と語られるのです。

  「願いと祈りと執り成しと感謝。」一言で言えば、すべての人々のために、神に執り成しの祈りをしなさいということですから、「雄々しく戦う」という時に緊張感が走る、普通の戦いの連想とは随分と違うことではないでしょうか。

  キリスト者とは、すべての人々に代わって、神への祈りに召し出された人です。腕力で戦い、言論で戦い、頭脳で戦い、商売で戦い、冬季オリンピックのようにスキーやスノーボードや華麗なアイスダンスなど、スポーツで戦う人があり、音楽、美術、芸術方面で戦う人も、社会福祉や、今日では科学技術の分野で戦う人もあるでしょう。だが、私たちキリストに召された者は、祈りへと召し出されているのであり、祈りで戦うのであるというのです。これはキリスト者にとっても意外なことかも知れません。

  しかも、「すべての人々のために」というのですから、私たちキリスト者は、教会やキリスト教の狭い仲間のためにだけあるのではない。全ての人の救いのために召されたことを肝に銘じるべきであるという事です。

  神のみ心は大きく、人の思いを遥かに超えています。ですから、パウロはエフェソ3章で、「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」と祈ります。キリストの愛の広さ、大きさ、豊かさを知ることによって、人間としての視野は大きくされ、信仰の度量の狭さも格段に広くされる。だから、あなた方はキリストの豊かさに与って、それによって満たされるようになりなさいと祈っています。

  キリスト者の使命は、まず何よりも全ての人達のために神に祈ることにある。社会や他者の批判ではない。どんなことがあっても、人々のために執り成しの祈りをする群れである。自分だけが大きく、豊かにされるためでなく、全世界の人々のために、特に貧しくされ、虐げられている人たちのために祈り、仕える群れである道を選びとったのがキリスト者であるということです。

  「執り成し」とは、神との間に立って頼むことです。ローマ書8章には、神の聖霊が「言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」とあります。また同じ8章に、「キリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」とあります。聖霊だけでなく、キリストも私たちのために執り成していて下さるのです。これは何と心強いことでしょう。

  私たち人間は、聖霊とキリストの執り成しを受けているから、今度は、全ての人々のために代理して祈る群れ、執り成しの祈りによって人々に仕える群れであるようにと勧められるのです。

  単なる執り成しでなく、「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のために」とありますから、様々な求めや祈願や願望、感謝もありますが、叫びも訴えも呻きも不安も涙もありますから、それらを人々に代わって神に捧げなさいと勧めるのです。世の人はどう思っているか知りませんが、私たちは世の人に祈りで連帯し、世の人に代理して祈るという光栄ある使命が神から与えられているのです。

  また、「王たちやすべての高官のためにもささげなさい」とも語られています。王たちには、日本の皇室も入るでしょうか。全ての高官には、今の首相や閣僚たちも入るでしょうか。首相や閣僚たちの言動を嫌悪し批判しているだけではダメで、先週はかなり批判的なことを語りましたが、真面目に彼らのために祈らなければならない。これは私自身、自戒を込めて今日の箇所から考えさせられます。

  そんなことを言いながらですが、最近、首相の顔がテレビに映るとテレビを消すという人たちが出てきましたね。聞きたくないので耳をふさぐんだそうです。そんな方に、「首相やすべての閣僚たちのためにも祈りをささげなさい」と勧めるのは酷かも知れません。政治家の言動が欺瞞的に響き、意図的なものを感じる場合は嫌になるでしょう。

  ただパウロがこう語るのは、背後にイエスの、「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という言葉が響いているからでしょう。だから、ローマの官憲に何度も逮捕され、鞭で打たれ、牢屋にぶち込まれ、反感も憎悪もあったでしょうに、彼らのためにも祈りなさい。敵意を持つ者に対しても、差別する者や歴史を歪める者に対しても執り成しの祈りをしなさいと勧めたのです。

  彼らのために祈るのは、彼らに擦り寄ったり、迎合したり、妥協することを意味しません。祈るのであるが、否を言うべき時にははっきり否を言っていい訳で、彼らの上にも神のご支配があるように祈り、祈りで戦うのです。

  パウロ自身、かつてキリスト教徒迫害の首謀者でした。それが、キリストに捕らえられ、やがてキリストを伝える伝道者にされた訳で、その経験も背後にあるでしょう。神の働きは人知を超えているからです。「王たちやすべての高官」、彼らも主を知り、主を信じるようになれば、信じるまで行かなくても尊重するようになってくれれば、幾分か考えが変えられる可能性があります。彼らのために執り成し祈るのは、彼らの目が開かれ、人生と世界の根源的な真理を知ってもらいたいためです。無から有を作られる神は、彼らを作り替えてくださる可能性があります。

        (つづく)

                                      2014年2月16日



                                      板橋大山教会 上垣 勝



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