人生の峠をどう越える


                     E.ムンクのこのような作品にもお目にかかれました
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                                             雄々しく戦う (上)
                                             Ⅰテモテ1章18-20節


                              (1)
  今日の箇所は、一見信仰の世界についてだけ語っているように見えますが、よく考えると信仰だけでなく、人間として社会の中でどう生きるかを深く考えさせられる箇所です。

  最初に、「わたしの子テモテ」とありますが、伝道者テモテは無論パウロの息子ではありません。テモテの母はエウニケであり、祖母はロイスで、二人共、敬虔で純真な愛情深いキリスト者ですが、父親は異教徒です。ですから青年テモテは、母方の敬虔な信仰を受け継いだ若者でした。

  既に1章2節にあったように、パウロは彼を、「信仰によるまことの子テモテ」と呼んで、彼を、キリスト教の将来を託しうる頼もしい息子のように信頼していたことが分かります。テモテはパウロの影響を深く受け、彼自身もパウロを我が魂の師として慕い、父親のように信頼したのでしょう。

  パウロはテモテに、「あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とを持って」と書いたのです。まるで、父親がまだ人生について未経験なことが多い子を励ますような、情愛が感じられます。

  「あなたについて以前預言されたこと」とは、恐らくテモテが伝道者として任職を受けた時に、彼に語られ、彼に委ねられた言葉を指しているのでしょう。パウロはテモテに手を置き、按手して、彼を伝道者に任職したことが第2の手紙に出てきますが、その時パウロがテモテに任職の言葉、激励の言葉を語り、更にはテモテの今後の使命を預言的に語ったのかも知れません。それを「あなたについて以前預言されたこと」と言っているのだと思われます。

  いずれにしろ、テモテに語られた言葉、預言に基づいて、伝道者の務めを果たして行きなさい。ひるむことなく、その言葉に力づけられて、「雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とを持って」とパウロは書くのです。非常に簡単ですが、これが今日のメッセージの中心です。

                              (2)
  テモテの手紙を読んで、やがて第2の手紙に入ると、「キリストの良い兵士として、司令官であるキリストを喜ばせようとして、良い働きをしなさい」と言われます。雄々しく戦うとは、自分のために戦うのでなく、キリストのため、福音のために、キリストに喜んで頂けるように戦うことです。それはパウロ自身がこれまでして来たからでしょう。

  言葉を変えて言えば、私たち人間の生命の源であられる方との関係において生きることです。これは大変重要なことで、人との関係だけで生きていると余りにも多く人に気を使いすぎ、弱くなりがちです。人の態度で落ち込んだり、元気になったり、不安定になります。しかし生命の源である主なる神を知って、神を仰ぎ、神との関係で生きる時には安定します。生き方が堅固にさせられます。

  「キリストの良い兵士として」とあります。私は軍隊の経験はありませんが、軍隊は、相撲部や野球部どころではない、上下関係の徹底した所であることは容易に想像できます。敵と生きるか死ぬかの死闘を繰り広げ、一丸となって支え合いつつ当たらなければ殺されるわけで、のんびり議論する余裕はありません。上官の命令の下、一つにまとまって向かわなければ、相手を倒せないからです。ですから、良い兵卒は、良し悪しを超えて、上官を喜ばせようと命令に従います。

  「雄々しく戦いなさい」とは、社会でも家庭でも人は独りかも知れませんが、孤軍奮闘しているのではないのです。キリストがいつも一緒に戦って下さっているのです。また、キリストと一緒に戦っているのです。

  キリストが一緒に戦って下さっているから、力の出し惜しみをせず、むしろ善意を出し切り、勝利を確信して、ひるまず戦うのです。後はキリストが引き受けて下さると信じて戦うのです。

  なぜなら、人というのは、安全と思えるところにいても、流れ弾に当たっていつ死ぬか分からないからで、戦場にいるわけではありませんが、今を力一杯出し切っていなければ、明日はいないかも知れないのが人間だからです。

  ただその時、「信仰と正しい良心を持って」と語られ、「正しい良心を捨て」たために信仰が挫折してしまったという2人の実例を挙げています。今日の聖書で考えさせられるのは、この所です。

  ここに、信仰とあるのは無論、キリストによる、或いはキリストにある信仰、私たちを罪の世から贖い出すために十字架の上にお架かり下さった、キリストの真実な信仰を指しています。先週のことで言えば、「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることができないのである」というような、私たちの心を強く打つキリストの真実なあり方。いかなる魂も赦し救って下さる、キリストの真実を信じる信仰です。

  私たちはいわば貨車みたいなもので、貨車は自分では止まったままで動けませんが、機関車に連結され、牽引されると、険しい峠の坂も登っていけます。そのようにキリストの真実とつながり、それによって牽引される時には、私たちは色々な問題を抱えて、嫌になっちゃって、人生が止まってしまいそうになるのですが、キリストの真実に繋がれると、人生という峠の坂道も引き上げられ、向こうに越えて行くことができるのです。

           (つづく)

                                      2014年2月9日



                                      板橋大山教会 上垣 勝



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