コーランを唱えて葬られた神父さん


                   湖から坂を上がりチューリッヒ市立美術館に行ってみました。
                     「ストーブの上で眠る子どもたち」Albert Anker
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                                            罪人のかしら (下)
                                            Ⅰテモテ1章12-17節


                              (3)
  パウロは、「わたしが憐れみを受けたのは、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」と語っていますが、手本というと、立派な手本や、逞しい、理想的な手本を思います。ただ、そういう申し分ない手本だけを考えては間違います。ここではむしろ、パウロは、自分は「罪人のかしらだ」。だが、いかなる「罪人のかしら」、最高の最たる罪人のかしらであっても、イエス・キリストの恵みはその人を救えないようなものではない。この自分を見よ。キリストに敵対し、迫害し、暴力を振るっていた、地獄に落ちるべき者をも憐れんで下さって、ここに救われているではないかと、神の憐れみの限りないことの手本として、また見本として彼は自分を示したのです。

  「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」本当にどんな罪人も救われるのでしょうか。救われたあと、再び罪を犯した人も救われるのか。そうです。二度、三度と信仰を捨てた人でも救われるのか。そうです。罪人を救うために世に来られたのです。そのために、今もキリストは十字架の上で血を流し、傷んでおられます。その人が悔い改めて帰って来るまで、今日もまた明日も、十字架で磔(はりつけ)のままで待っておられるのです。

  イスラエルの王国時代に、神の箱がペリシテ人に奪われ、長くエルサレムから失われたままになっていたことがありました。神の箱はモーセシナイ山で授かった十戒の石の板が入っていましたから、神の箱がないということは、いわば神がイスラエルから失われたこと、彼らの精神的な最も大事な拠り所を喪失したことでした。だがやがてダビデ王が登場し、神の箱をエルサレムに運び入れることになりました。

  その日、イスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして主の箱を運び上げました。ダビデ王は、喜びのあまり、主の箱の前で力の限りに踊ったのです。ところが、お城の高窓から見たサウル王の王女ミカル、彼女はダビデの妻ですが、夫の姿を、はしたない姿だとして、「ご立派ですこと。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になって踊ってる」と蔑(さげす)むのです。それを聞いたダビデは、「私は、イスラエルの主のみ前で感謝し、喜び踊ったのだ。私はもっと卑しめられ、自分の目にも卑しくなろう」と語って、服を脱ぎ、裸になって踊ったとあります。要は、主を喜ぶ感謝の心を、力のあらん限り尽くし、恥も外聞も捨てて表現したのです。

  パウロが、自分を「罪人のかしら」だと語ってしていることは、本質的にダビデと同じことです。自分はどんなに辱められても、自分の辱めを通してであっても、主が称えられ、主が証しされればそれで十分だと考えているのです。

  パウロの信仰と愛の情熱は、そういうところから発しています。私の傷口に主が癒しのみ手を置いてくださった。その感謝が彼の喜びの原点です。

  キリスト教の証というのはおかしな所があります。無論色んな証の仕方がありますが、その大半は救いの証ですから、自分は罪人である、罪に満ちているという証です。しかも、そんな罪の私にキリストが打ち勝って下さったという証であり、実(み)を結ばせようと私の中に荒れ狂っている罪と死の力に、キリストが勝利下さったという証です。キリストが私に勝利してくださったから、私は平和を、赦しを、安息を与えられた。これが私の喜びとなり、福音となった。これが嬉しくて、有り難くてならない。これが確実であることが嬉しくてならないという証です。

  すなわち、神を指し示すのです。パウロが今日の最後でしているのがそれです。「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

  これは、他には例を見ないほど荘重な神様に対する頌栄です。パウロは全存在を持って、何とかして王なる唯一の神、不滅で、目に見えない、永遠なるお方を、力を尽くして誉め称えようとしたのです。彼の生涯は神を誉め称えるそのような活動であり、表現であり、自分の身を通して神のみ名が崇められますようにという祈りであったと言っていいでしょう。

  誉れと栄光が世々限りなくありますように。私たちも、堂々とした神への賛美を、これほど荘重である必要はありませんが、僅かでもいい、自分の言葉で、心の底から突き上げてくる思いを持って、力を尽くしてすることができたら、何と素晴らしいことでしょう。

  詩編102篇は、「主を賛美するために、民は創造された」と歌っています。私たち人間が創造された最終目的は、経済的な富を築き上げるためではない。自分の名を後世に残すためではない。それはマスコミが躍起になってしていることです。人間が創造された最終目的は、そうではなく、自分を造ってくださった創造主なる神を単純にほめたたえ、賛美することにあるのです。

  だいぶ前に、ある教会に属する方で、日本舞踊を教えているまだ若いキリスト者の方のことを読みました。30代前半の方だったと思います。その方が、自分は日本舞踊を通して主を誉め称えているのです。自分の踊りは主を称える踊りですと語っておられました。日本舞踊を通して主を称える。主を、力を尽くして賛美する。それには、様々な道があって、舞踊を通してもそういうあり方があるという事です。何て素晴らしいあり方かと思いました。主を賛美するというのは、固く考える必要はないのです。大きく、伸び伸び考えていいのです。

  もう一つ、バングラデシュに遣わされたダグラスという神父さんの話です。この方は本当に慎ましく生活された方らしく、バングラデシュイスラムが90%、ヒンズーが9%ですが、主にイスラムの人びとと共に在った方のようです。タイのバンコクの病院で、白血病であることが分かり、帰国後、2週間で亡くなられたそうです。しかし死ぬときも、「自分を埋葬するときは、お金を使わないでください。貧しいイスラム教徒のように、布にだけ包んで葬ってくれたらいい」と語ったそうです。

  実際にこのダグラスさんの葬儀は簡素に行われ、葬りのとき、司式の神父さんは、ダグラスさんのことを知っておられたので、集まった人達に、その多くはイスラムの人たちだったようですが、「どうぞコーランの祈りを唱えてやってください」とおっしゃったのです。そして、たくさんの花が手向けられ、バングラデシュの人々のコーランの祈りと共に、キリスト教の神父さんが埋葬されたのだそうです。(JOCS岩本直美ワーカー講演より)

  私はここにも、自分の身を通し、力を尽くして主のみ名を誉め称えたまことのキリスト者がいたと思います。コーランを唱えて葬られた神父さん。素晴らしいです。何と光栄だったでしょう。この方は、国境を越え、民族を超え、宗教を超えて、イスラムの多くの隣人を愛することで主のみ名を純真に誉め称えた方だったからでしょう。

        (完)

                                      2014年2月2日




                                      板橋大山教会 上垣 勝



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