地獄に落ちる罪人のかしら


                遊覧船から戻ると湖の橋のたもとで10mの高飛び込みをしていました。
                               ・




                                            罪人のかしら (中)
                                            Ⅰテモテ1章12-17節


                              (2)
  そこで、パウロは今日の中心となる言葉を語ったのです。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」

  彼はイエスの愛の前で、自分を振り返るのです。イエスの愛の前に立てば立つほど、過去に犯して来た罪の重さに打ちひしがれそうになる。だが同時に、「キリストは罪人を救うために来て下さった」という事実の重さに強く心打たれ、励まされたのです。

  この「言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」この言葉は確実であり、そのまま信頼して受け入れてよいものである。安心してこの言葉に委ねればいい。

  私は初めてこの言葉に接した時、まるで洗礼の恵みの水を全身に注がれるような錯覚を覚えました。やっと、ここに重荷を下ろせる場所がある。休みがある。休息できる場所があるという思いになりました。

  それと共に、私も罪人の最たる者、罪人のかしらだと思いました。そして罪人のかしら、最たる者であることが嬉しく、誇らしく思われました。イエスにすべてを知られている罪人だからです。赦された「罪人」であり、未だ罪人ですが、「赦された」罪人であることが嬉しくてなりませんでした。

  「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は、パウロ時代にキリスト教徒の間に流布していた言葉だろうと思います。しかしパウロは流布している言葉を単に引用したのでなく、彼も自分自身の不信仰な信仰の経験から、心からアーメンと告白する言葉として、自分の言葉として語っていると言っていいでしょう。

  彼が溢れるほどの恵みを与えられ、真に寛大に取り扱われたのは、彼が立派だったからでなく、信仰深かったからでもないのです。彼は「罪人のかしら」、その最たるものであった。それにも拘らず、キリストのゆえに、神は自分に「限りない忍耐を」、忍耐の限りを尽くして憐れみ深く対して下さったからだということです。

  第2テモテ2章で、前の口語訳ですが、彼は、「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることができないのである」と語っていますが、そういうキリストの真実に彼は強く心打たれたのです。

  パウロはこの信仰から生涯動きませんでした。自分と神との、自分とキリストとの接点は、この「罪人のかしら」である。この一点からどこかに移動しようとしませんでした。

  彼は合計3回の大伝道旅行をしますが、彼の伝道のエネルギーが尽きず、次から次へと流れ出て海外伝道をして遠くローマに、またイスパニア(スペイン)に、いや地の果てまで伝道したいと考えていたと思われるのは、自分は地獄に落ちるべき「罪人のかしら」であるという認識を常に持っていたからです。そして自分は偽っても、キリストは偽ることができない方である。ここに生涯を賭けうる最も確かな神の真実があると確信したからです。


        (つづく)

                                      2014年2月2日




                                      板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


                               ・