憑き物が落ちました


               チューリッヒ湖を小一時間遊覧して帰ってきたら橋の上は超満員でした。
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                                            罪人のかしら (上)
                                            Ⅰテモテ1章12-17節


                              (1)
  今日の13節で、パウロは自分の過去を率直に語っています。「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。」過去の彼は、ユダヤ教の律法を盾に暴力的に振舞う男でした。律法を根拠にキリスト教徒を責め、時には暴力も辞さず、情け容赦せず弾圧する人間でした。

  これはガラテヤ書1章に書かれる彼の姿ともダブります。そこでは、「私は徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年頃の多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」と書かれています。ユダヤ教の伝統をファンダメンタルに頑固に守る、熱狂的な律法主義者であったわけで、キリスト教徒を撲滅するために働き、それだけでなくキリストご自身に敵対していたと言っていいでしょう。

  使徒言行録9章で、彼はキリスト教徒を男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行していた時に、天からの光が彼の周りを照らし、「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」という声を聞いたということと符合します。サウルは改名前の彼の名前ですが、彼は教会を迫害していたが、それは取りも直さず「私」、つまりイエスご自身への迫害であったということです。

  そのような酷い前科を持ちますから、やがて回心してキリスト教徒になりましたが、中々教会の仲間に入って行けなかったでしょう。キリスト教徒迫害の首謀者ですから、彼を手放しで信用する者はなかった筈で、パウロキリスト教になったのは、下心があるのでないか。教会に潜り込み、教会の内側からごっそりキリスト教徒を引っ捕えようとしているのでないか。そのような強い疑りもあったでしょう。

  そうした中で、ユダヤ教時代の鼻っ柱の強い彼とはいえ、教会の中はユダヤ教とは全く異質な空気が流れていますから、非常に戸惑い、心細くなり、崩折れそうになることさえあったでしょうが、今日の冒頭で、「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせて下さったからです」とあるように、誰が彼を、どう見、批判しようとも、キリストご自身が自分を忠実な者と見なして下さった。この思いが彼を強くして行ったのです。

  主キリストが「私を忠実な者とみなして」下さったとは、具体的には、教会の中の務めや奉仕をする中で、彼が信頼の置ける人間だということが次第に明らかになって行ったことを示唆しているでしょうが、それ以上に、彼自身が、こんな酷い前歴を持つに拘らず、キリストから忠実な者として信頼されたという実感、確信、喜び、感謝を持ったからに他なりません。主観的といえば主観的ですが、彼にとってはそれはいわく言い難い真実を持って迫って来る、キリストご自身からの信頼を感じたのでしょう。

  彼は、ガラテヤ書で、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死人の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と書いています。彼はキリストが自分に直接出会って、弟子に、使徒にして下さったという強い自覚と喜びを表明している箇所ですが、この自覚が今日の手紙で、「私を忠実な者とみなして」下さったという言葉になっているのだと思います。

  ガラテヤ書は更に、「兄弟たち、私が告げ知らせた福音は、人によるものではありません。私はこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」と語っています。ここにも、キリストご自身から啓示を受け、信頼され、忠実な者と見なされたという喜びが感じられます。

  くどくなりましたが、こうして彼は、かつては教会を荒らしまわる荒々しい粗暴な人間でしたが、キリストと出会って、憑き物が落ちたかのように穏やかな人間になり、優しい顔になったに違いありません。そして実際、度量の大きな人間に変えられていきました。真実なものと出会うと、人間は、かくまで大きく変化します。

  パウロはキリストに出会って造り変えられたのです。「信じていないとき知らずに行なったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました」というようになったのです。

  人は褒められると育ちます。子どもは愛情をかけて、しっかり褒めてあげなければなりません。肯定されて増長する人も中にあるでしょうが、一般には信頼されれば成長しますね。神が真に寛大に取り扱ってくださったと思えば思うほど、キリストの憐れみの深さに心打たれたのです。パウロはキリストの真実な愛に触れることによって、恵みに恵みを加えられ、信仰と愛と共に溢れるほどに与えられたのです。

  「だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」とイエスは言われましたが、彼は、これは主の憐れみだ、感謝だと受けとめるに連れて、益々主の恵みに与ったのでしょう。

        (つづく)

                                      2014年2月2日




                                      板橋大山教会 上垣 勝



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