独房の鉄格子から説教


                遊覧船に座っているだけで次々新しい場面が登場して見飽きません。
                                             (右端クリックで拡大)
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                                            復活から始める (下)
                                            ヨハネ11章17-27節
        
        
                              (3) ―前回から通してお読み下さると幸いです―
  ドイツにシュナイダー牧師という人がいました。教会に長くこられている方はご存知かも知れません。ナチスにより、最初に殉教の死を遂げた人で、「ブーヘンヴァルトの説教者」と言われました。彼に接した人が戦後この牧師について書いています。紹介します。

  彼はブーへンヴァルトの強制収容所に入れられましたが、収容者が整列させられ、ナチスの旗に向かって「脱帽」と命じられた時も、最前列で収容所の指揮官の向かいに立っていたに拘らず、脱帽せず、かぶったまま断固立ち続けたのです。非キリスト教的な印への敬礼は良心の許す所でなかったからです。彼はナチに屈しないキリスト者でした。

  その結果、殴られ、蹴られ、叩きのめされ、恐るべき独房にぶち込まれ、13ヶ月間独房で耐えたのです。13ヶ月後やっと釈放されたのでなく、殉教しました。僅かでもこの独房の恐わさを知る者は、断固たるこの男の精神の偉大さに心打たれたといいます。彼はまた、イエスが死なれた金曜日にはいつも、どんな食べ物も取ろうとしなかったのです。

  聖書には、石で撃ち殺されたり、ノコギリで引き殺されたりしたキリスト者のことが出ていますが、約70年前のドイツにも、それに類した信仰者がいたのです。信仰とは何かを改めて考えさせられます。

  収容者たちは毎朝、強制労働が始まる前に整列し点呼させられましたが、クリスマスなど大切な祝祭日には、身動き一つ許されぬ点呼の静けさを破って、独房の重苦しい鉄格子を突き抜けて、シュナイダー牧師の預言者の如き声の説教が、整列している人たちに向かって聞こえて来たそうです。ドイツ中部の田舎町ブーヘンヴァルトです。冬の早朝の気温は零下10度に下がります。肌を切る冷気の中に、鉄格子から説教が響き渡ったのです。

  春のイースターには、非常に力強い言葉が聞こえたそうです。それは、「私は甦りであり、命である。私を信じるものは、たとい死んでも生きる」という今日の聖句でした。整列させられていた人たちの長い列は、圧倒的な断固たる意志を示す勇気と力に、心の髄まで揺り動かされ、立ち尽くしたそうです。まるでヘロデの獄屋から呼ばわる洗礼者ヨハネの声、荒野で呼ばわる者の力ある預言者の声のように思えたと言います。

  彼はこのみ言葉を口先で説いたのではありません。「私を信じるものは、たとい死んでも生きる。」この言葉に、生きるか死ぬかのギリギリの所で生かされ、支えられ、この言葉を土台に勇気を授けられ、獄中で主に生かされたのです。この言葉は彼の実存を貫いて、彼自身の言葉となって語ったのだと思います。

  だから強制収容所にあっても「世の光」であったのです。まさにブーヘンヴァルトの説教者でした。彼は教会から収容所に連行され、教会の講壇を奪われた時、独房から世界に語る説教者になったのです。収容所が彼の礼拝堂になり、恐ろしい独房が講壇になったのだと私は思います。

  だが彼が語るや、たちまち看守が太い棍棒で滅多打ちにし、衰弱し、軽くなった体は独房の隅に吹っ飛びました。それにも拘らず、どんな野蛮な暴力も、彼の強固な不屈の意志、神から注がれる勇気には勝てなかったのです。

  収容者に犠牲者が出ると、彼は、恐怖を抱いている収容所長を弾劾する、恐ろしい言葉を独房から浴びせたそうです。「あなたは大量殺戮者ですぞ。私はあなたを神の裁きの前に告発します。囚人を殺す罪を許しませんぞ。」

  だが1年1ヶ月、彼の肉体は遂に野蛮な力に屈しました。まともな所がないほどボロボロになった体が、独房から運び出されました。彼の死が全収容所に知れると、厳粛な、深い感動が一同に起こったそうです。死因は強心剤を大量に注射されたためでした。結婚して13年、42才の殉教でした。

  「私は甦りであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。」これがイエスの口から語られた時、45節以下で分かるように、イエスの身にも既に死が迫っていました。そのような中で、イエスはこの言葉をマルタに、私たちに、万人に語られたのです。「私を信じる者は、たとい死んでも生きる。あなたはこれを信じるか。」ここに私たちに勇気を与える大岩、希望の確かな塔、堅固な土台が差し出されているのです。

  シュナイダー牧師の話をしましたが、殉教を勧めているのではありません。そうではなく、このキリストの言葉に、死をも乗り越えて行く、即ちまことの勇気を授ける源となる泉が湧いており、ここに、挫折や苦難や失敗や絶望や裏切りや赦せないことなど、この世の一切の戦いや悩みや囚われを超えていく、確かな希望の源があることを知って頂きたいからです。

  「私を信じる者は、たとい死んでも生きる。」祈りましょう。

       (完)

                                      2014年1月26日



                                      板橋大山教会 上垣 勝



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