この年、復活から始める


          チューリッヒ湖の遊覧船から結婚式の野外パーティも見え、花婿が手を振っていました。
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                                            復活から始める (つづく)
                                            ヨハネ11章17-27節
        
        
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  そういうマルタに、イエスは決定的な言葉を語られました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」前の口語訳は、「私は甦りであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる」となっていました。この方が心に真っすぐ入って来ます。

  イエスの肉体を殺せても、「私は甦りであり、命である」と語られるのです。この存在を滅ぼすことはできない。イエス・キリストは、やがて最後決定的に死に打ち勝ち、甦られる、「命そのもの」であられるからです。このことは既に1章で、「光は闇の中に輝いている。いかなる闇も光に打ち勝つことはできなかった」と語られていた事と符合します。

  「私を信じる者は」とは、十字架の死と、イエスを死者の中から復活させる神を信じる者です。信じるとは、イエスを絶対的真理として、イエスの真意を感謝して受け入れること、信頼を持ってそれに命をかけていくことです。イエスとの真実な交わりに入ることです。

  この事に、あなたの人生の土台を置こうとするかと、マルタに聞かれたのです。

  その前の、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」とあるのは、肉体的な死ではありません。もしそうなら、イエスの言葉は嘘になります。イエスを信じる者も他の人と同様に肉体は死ぬからです。ですからイエスは、肉体の死でなく、本質的な意味の死、罪の結果としての人間の滅び、魂の破滅という死を経験することがないと言われ、これを信じるかと問われたのです。

  いずれにせよ、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」このことは非常に重要です。これに、キリスト教信仰の全重量がかかっていると言っても過言ではありません。キリストの復活と私たちの復活です。イエスにあっては、死はピリオドでなく、コンマに過ぎません。死は終わりでなく、先があり、向こう側で復活のイエスが私たちを迎えて下さるのです。肉体は滅びても、キリストにより霊の体、霊の命に甦るのです。人格は永遠に生きる。死の向こうに確かな将来があります。

  私は足に自信があって、人を追い抜くのに快感を持っている人間です。急いでいる人を抜くと気持ちいいですね。ところが先日、50代の長身のご夫婦が後から来て、私を難なく抜いて行きました。畜生と思いましたね。追いつこうと急ぎましたが、悔しかったのは離されるだけでした。足の自信はもうダメです。今後は、何に望みを持てばいいのでしょう。

  私はまた、自分で自分がどうしようもなく、自分を変えられない所があります。だが、そういう情けない存在であるからこそ、自分でなく、もっと確かな何かに望みを置くことが重要になります。詩編62篇に、「神こそ、私の岩、私の救い、砦の塔、私は決して動揺しない」とありますが、そういう確かな土台が必要だと感じるのです。第2テモテが語るように、「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることができない」とあるような確かな真実な土台です。

  知人である引退牧師の奥様が脳腫瘍を患い、入退院を繰り返し色んな能力が衰えて来られたそうです。その牧師も困って専門医に相談なさったそうです。すると、今までのように奥さんを励ますよりも、会話能力や歩行能力その他、「それらの能力がなくなっても、なお残るもの。つまりこの人間、その人を心から受け入れ、いとおしむことによって、一日一日を幸せに過ごすように」というアドバイスを頂いたそうです。その人そのものを愛し、大事にして下さいということでしょう。

  それで、勧めに従ってそうなさったそうです。すると、「そう思うようになったとたん、まず自分の心が和んで来た。今まで妻は自分に急き立てられて辛かったのではないか」というようなことを書いておられました。そしてヨブ記1章の、「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」の言葉を引用しておられました。

  人生の土台を何に置くかです。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。」この方は、人生の夕暮れを迎え、「裸で出てきた。裸で帰ろう」と、改めて主なる神に土台を置こうと決意されたのだと思いました。また、主に土台を置く時に、能力が奪われてもなお残る、「人間、その人自身を心から受け入れ、いとおしむ」という、素朴な人間の原点に帰ることができるようになったと語ろうとしておられると思いました。

  何才であっても、自分の生きる根拠、土台を明確にしなければならないと思います。

  新年も、1ヶ月が終わろうとしていますが、心改まった新年の思いをまだお持ちですか。私はこの年を迎えて、「復活から始めよう」と思い、今後はそうしたいと思いました。それは、「私は甦りであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」の聖句を示されたからです。キリストの十字架、罪の赦しはむろん大事ですが、そこに留まらず、今後は、この力強い復活信仰に軸足を置いて生きたいと思ったのです。

  プライベートなことになりますが、クリスマスの時期にクリスマス・カードを頂き、それに混じって、クリスマス・カードならぬ思いがけないカードがありました。肺がんの通知というカードです。心は別に動揺なく静かでしたが、心中密かに、今日から終わりの準備をしようと思いました。その夜、湯船にゆっくり浸かり、湯船で家内に感謝しました。こんな奴と長い間付き合ってくれてありがとう。直接言うのは気前が悪いので、お風呂の中でブツブツ申しました。その夜は久しぶりに熟睡しました。私は不眠症で、変な楽しみですが、やっと永遠の眠りにつけるが楽しみの一つです。

  2日目の夜、寝床に入ると、突然、「私は甦りであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。」「たとい死んでも生きる」と言う言葉に電撃のごとく打たれました。天からそういう声を聞いたというのでなく、逆にこの言葉と共に、非常に深いところから、「私の命は死で終わらない。死の向こうに命がある」と、新しい命が湧き起こってくる思いがしました。喜びでした。ああ、イエスはこのために来られたのだと確信しましたね。イエスのメッセージの中心はこれだと思い、感謝しました。

  勇気が湧き、希望で溢れました。これは私に与えられる希望であると共に、万人に授けられる約束だと思いました。復活こそ永遠の希望、永遠の慰め、永遠の実在である。死を越え、万人に勇気を与える究極の真理だと気づき、喜びに満たされたのです。それで私は死を恐れなくなりました。死は冷たい隔ての壁でなく、薄紙を隔てて向こうに陽の差す縁側が用意されていることに気づいた。「たとい死んでも生きる。」イエスの言葉は、私に温かな春爛漫の縁側を教えてくれたのです。

  ただ、区の検診だけでは肺がんだと断定できません。精密検査を2月に受けますが、不安はありません。私はそんな簡単にお陀仏しませんので、どうぞ心配なさらないでください。ただ、今は、肺がんのクリスマス・カードをきっかけに、主が「たとえ死んでも生きる」という究極的な実在を教えて下さった訳で、本当に感謝しています。これは個人的なことだけでなく、この御言葉は、皆さんの人生にも関わる大事なことだと思って、ここにご紹介いたしました。それと、今夜布団に入ったら、「私は甦りであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる」と、イエスの言葉をゆっくり唱えてみてください。皆さんも何かを与えられるでしょう。

       (つづく)

                                      2014年1月26日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



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