ここが勝負どころ


                     チューリッヒ湖の遊覧船からの眺めに堪能しました。
                                             (右端クリックで拡大)
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                                            復活から始める (つづく)
                                            ヨハネ11章17-27節
        
        
                              (1)
  今日の話は、11章1節以下のラザロの復活物語の一部分です。ラザロは、マルタとマリアとの3人兄弟ですが、ラザロが危篤になり、姉妹たちは大急ぎでイエスを呼びにやったのです。ところがイエスは、「この病気は死で終わるものではない」と語って、彼らを愛しておられたのに、なお2日同じ所でゆっくりしておられました。

  更に4日たち、やっとイエスは、「私たちの友ラザロが眠っている。私は彼を起こしに行く」と弟子たちに語ってベタニア村に急がれました。

  今日の17節に、「イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に4日もたっていた」とあるのがそのことです。「既に4日」とあるのは、彼は完全に死んでいたという意味でしょう。

  20節に、「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた」とあります。姉のマルタはしっかり者で、何があっても理性的に処理できるタイプであまり落ち込まない。確かにそんな方がいますよね。片や妹は、イエスが来られたと聞いても、立ち上がれないほど落ち込んでいたのです。こういう方もありますね。別の場面では、イエスの一行を迎えた姉妹は、妹の方はイエスの足元に座って話に聞き入っていたのに、姉のマルタは接待に心せわしくなり、台所で、妹が手伝ってくれないので頭にきながら動き回っていたとあります。同じ姉妹でもこうも性格が違うものかと不思議です。姉や妹の事で、思い当たる人があるかも知れません。

  姉はイエスを迎えに行きました。ところがイエスの顔を見ると、「主よ、もしここにいて下さいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、ズバッと不満を漏らしたのです。急いでお呼びしたのに6日もしてやっと来られたと、疑問を率直にぶつけたのです。愛する者を失った肉親の恨みに似た思いが伝わって来ます。なぜ飛んで来て下さらなかったのですか。今時来られても手遅れですと、悔しさ、訴えの言葉だと言えます。

  人間は、他人の感情にはしばしば呆れるほど無感覚です。自分が被害者の場合はとんでもないと思いますが、加害者の場合は実に無神経です。誰でもそんな限界を持っています。また、公明正大である人がつまらぬことで不正直になったり、些細なことを誤魔化したりすることも起こります。愚かですが、その結果、罪に悩み、死ぬほど苦しめられることさえあります。また誘惑されて一線を越えることも起こりかねません。

  だがそんな時にも、イエスの愛のみ手は私たちに届いています。ですから、そこで一線を踏み越えずに、手前で振り返ってイエスに帰って行くかどうか、それが人生の大事な分かれ目になります。群馬の農薬混入事件でも決行の手前で必ず迷った筈。犯行の一歩手前で引き返せばよかったのです。

  マルタはイエスに楯(たて)突きながら、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、私は今でも承知しています」と、ギリギリの所で踏み留まり、まだ信頼を失っていないことを表明しました。

  これは考えさせられることです。私たちは、神がなされることが余りに残酷に思え、全く理解できない事があります。神とはいえ、何て酷いことをと思ったり、信仰が冷めそうになることさえあります。当然です。だが、それでも神は愛です。神は私たちの主であり、私に身を向けて下さる方であることは変わりません。全く酷く思えることを通しても、何か必ず重要な事をしようとしておられるのです。ですから、ヘブライ人への手紙は、「自分の確信を捨ててはなりません」と語り、「この確信には大きな報いが伴います。神のみ心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」と語ります。あなた方に必要なのは忍耐である。ここが勝負どころです。

  マルタはギリギリの所で踏み留まりますが、不満は残っているので、イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われても、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と応じます。人は皆、終末の日に復活すると言われていることは知っていますと、一般的知識として答えたのです。

                              (2)
  そういうマルタにイエスは、今日の中心聖句ですが、決定的な言葉を語られました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」前の口語訳は、「私は甦りであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる」となっていました。この方が心に真っすぐ入って来ます。

       (つづく)

                                      2014年1月26日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



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