羊と銀貨


                 夏の短い人達にとっては日光浴は欠かせない楽しみのようです。
                                                 (右端クリックで拡大)
                               ・



                                        ドラクメ銀貨発見の喜び(下)
                                        ルカ15章8-10節



                              (2)
  次に、「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」とあります。

  先程申しましたように、夫や家族はここに出て来ません。しかし友達や顔見知りの女たちを集めて、「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」と喜びを満面に表し、小躍りして、「こうしたのよ」、「ああしたのよ」、「こうだったのよ」と、興奮して話すだろうというのです。実に庶民の生活のリアルな一コマです。イエス様は、学者目線で庶民を見下ろしたりなさらず、こういう喜怒哀楽あふれる日常に入って人に接しておられたのでしょう。

  すると、話を聞いた女友達や近所の女たちが、「私もだわ。私もよ。私の時はこうだった。ああだった」と、次から次へ楽しい話がなされて、喜びが盛り上がるだろうということです。まるで大山教会の祈祷会の聖書の学びを彷彿(ほうふつ)とさせられる有様です。大山教会の聖書の学びは実に楽しいですし、非常に深いところまで掘り下げられます。友というのは喜びを倍にします。悲しみを半減させてくれます。マンションでは、中々ここまでは行かないかも知れません。

                              (3)
  さてイエス様はこう話されて、「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と言われました。

  この話をされたのは、1、2節以下にある状況と同じです。付近の徴税人や罪人が大勢、イエスの話を聞こうとして集まって来た時、ファリサイ人や律法学者たちが彼らを毛嫌いして、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出したのがきっかけでした。

  イエスの目には、ファリサイ人や律法学者たちに嫌悪されて、白い目で見られている徴税人や罪人は、いわば一枚の無くしたドラクメ銀貨です。

  だが最も小さい者の一人であっても、その一人でも悔い改めることを、神も神の天使たちも大勢が、期待し、待ち望んでいるとおっしゃるのです。神の天使たちが目を注いでいるのは、正しい人たちでなく、見下げられ、弾き飛ばされ、疎外され、思い悩み、苦労を知る、小さい人たちであるということです。

  だが失われた銀貨の譬えが語るように、どんなに失われても銀貨は必ず家の中にあります。神のご支配の外に出てしまうわけではありません。だから譬えでは、諦めず、目を皿のようにして探すのですが、そこには神の測り知れない愛の深さが暗示されています。

  群衆に紛れ込んで、イエスの衣の裾にそっと触った長血の女がいました。色々の医者に行ったがさんざん苦しめられ、財産を使い果たした上、ますます悪くなる始末です。彼女は恐る恐る衣の房に触るとたちまち血が止まりました。イエスは力が出て行ったのを感じ、誰が自分に触ったのか、その人を見つけようと探されました。先を急いでいたのに、立ち止まって目を皿のようにして探されたのです。弟子たちは、さあ早く行きましょう。これだけ沢山の人がいるのです、誰が触ったかなんて分かりませんよと言いますが、イエスは決して先に進もうとなさらず探されたのでえす。やがて恐る恐る申し出た女に、イエスは、あなたの信仰があなたを救ったと語られましたが、それは、神との関係が回復するためでした。

  人間の手から落ちてどこかに行って失われれば、どんなに価値ある銀貨であっても、たとえ1億円の価値ある銀貨があるとしても、埋蔵されていれば価値は死んでいます。大いなる神のみ手の中にあってのみ、銀貨の価値が生まれます。神のみ手の中にあり、神との関係が回復される時に、たとい小さな人間もその真価が発揮されるのです。だからイエスは、その人を見つけ出すまで、群衆の中に立ち止まられたのです。


  見失った羊と無くした銀貨の譬え。違いはどこにあるでしょうか。銀貨は羊のように意志を持ちません。銀貨は意思と関係なく、何かのはずみにコロコロと転がり、何かに当たってまた別の方向に転がって、思わぬところに隠れたり、予期せぬ隙間に落ちたりします。

  古代ギリシャの銀貨は小さく、一円玉の3分の2ほどの大きさです。しかも家は暗い。普通は昼間にランプを炊かず、薄暗い中で暮らしています。

  日本人ほど明るさを好む国民は少ないようです。前にも触れましたが、イギリスの一般家庭はもっと電力の消費を抑え、暗がりに見えますが、自然な明るさの中で生活しています。彼らは薄暗がりの美学のようなものを持っています。その方が心が落ち着くようです。部屋は部分照明にしています。お客さんが来てもそうです。

  それに比べ、日本は宇宙から見て、一きわ明るく素晴らしく輝いていますと、宇宙飛行士がトーンを上げて語りますが、果たしてその輝きが本当に良いことなのかどうか、それは原発問題に関係しますが、日本の宇宙飛行士は殆どそれを語りません。アルツハイマー症の国家プロジェクトの研究もそうですが、私は、最近の科学者とは何なのかを考えさせられています。

  元に戻りますが、羊と違い、銀貨には責任がありません。それと同様に、色々な出来事を通して、人は右に左に動かされ、何かの弾みに神から離れて遠くへ行ってしまう場合はなきにしもあらずということでしょう。運命のいたずらがそうする場合もあります。

  だが、たとえそういう状況に置かれていても、神は見つかるまでお探し下さるということです。譬えですから、全ての現実を網羅できませんが、見つけられた銀貨は沈黙していますが、見つけた人は、「ここに、あったー!」と、歓声を上げて拾い上げるでしょう。神も、神の天使たちもそうだと、イエスは言われるのです。

  見つけられるとは、神の光の中に置かれることです。神の前に姿を見せることです。ありのままの姿を持って、神様の前に立つことです。神の前に素直に立つとき、平安が来ます。

  この譬えでは、悔い改めは喜びです。陰鬱な、顔を曇らせるべきことでなく、断食するような辛いことでもなく、自分の本来の主に発見されたことによる、新しい生き方に向かって喜びで弾けそうな一歩を始めることです。しかもその喜びは、天上の神の天使たちの間に起こると言われるのです。彼の、彼女の地上での悔い改めは、宇宙的な出来事として人の目に見えざる領域においてさえ喜びが共有される事になるということでしょう。

  私たちが信仰に入ることは、神との交わり、キリストとの交わり、聖霊との交わりという、とても広い世界に入れられることなのです。

  急に話が変わりますが、私は夕陽を見るのが好きですが、東京では中々広い空も雄大な夕陽も望めなくて寂しく思っていましたが、暫く前に15階建ての病院で久しぶりに荘厳な日没に接しました。

  雲が比較的多い日でしたが、ちょうど陽が沈む富士山の辺りは雲の切れ目があるので、どんな夕陽になるか楽しみでした。快晴より雲があったほうが夕日は映えます。見ていますと、太陽が雲の切れ目に差し掛かった時、それまで都心のビル群は暗さの中に沈んでいましたが、一瞬に無数のビルの西向きの側面がオレンジ色に輝きだしたのです。

  感動しました。それを見ながら、人間は皆、生命の源なるまことの神を仰ぎ、真っ赤に照らされる瞬間を待っているのでないかと思いました。高いビルも、低いビルも、都会に住む私たち全ての者たちも、最後には、本当は命を授けて下さったお方を仰いで、そのお方との生きた輝く交わりを回復し、神様に照らされて、一生を閉じる日を待っているのでないかと思ったのです。

  ビルは顔を赤くして、照らされるまま沈黙していました。しかし太陽の方を見ると、その日の最後の素晴らしい後光をたなびく雲にも、青空にも、そして地上にも発していました。まるで、神の天使たちの奏でる喜びの音楽が天に鳴り響き、聞こえるかに感じました。


        (完)

                                      2014年1月19日



                                      板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif


                               ・