聖書の中のへそくり


                チューリッヒ湖の遊覧船からの眺めは次々に場面が変わり最高でした
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                                        ドラクメ銀貨発見の喜び
                                        ルカ15章8-10節


                              (序)
  ルカ15章に、失われたものの譬えが3つ出て来ます。失われた羊の譬え、今日の、無くなった銀貨の譬え、そして放蕩息子の譬えです。趣旨はほぼ同じですから、毎回似たことを話しては皆さんは聞き飽きるでしょうし、メンツが立たないわけではありませんが、気持ちがすっきりしない。で、お話する側は辛いです。家内から今朝、先週と同じような箇所をどう話すの?と聞かれて、一層追い込まれました。幸い、来週は大塩先生ですからホッとしています。ただ、その後は暫く別の箇所に行って、忘れた頃に、いや、ほとぼりが冷めた頃にと言うのもおかしいですが、ちょっと間を置いて放蕩息子の譬えに帰って来たいと考えています。

                              (1)
  ドラクメ銀貨の譬えは、少しコミカルな所があります。「ドラクメ銀貨を10枚持っている女がいて、その1枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、…。」子沢山で、夫は若死にし、女手一つで子どもたちを育てていた、母マリアのそんな姿を見て育たれたのでしょうか。銀貨をなくして慌てている一家の主婦へのいたわるような、イエス様の優しい眼差しが感じられる気がします。

  家族と暮らしのことがいつも気がかりな主婦。台所、貧しい家計のやりくり。最下層ではないが、たっぷり余裕があるほどお金があるわけでない古代パレスチナの小市民の家庭です。

  「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて」とありますが、これは主婦のヘソクリでしょう。ドラクメはギリシャ貨幣で、デナリ貨幣と同じ価値ですから、1万円ソコソコです。因みに、日本最初の銀貨は和同開珎(わどうかいちん)です。しかし銀の含有率が80%程で、当時の価値は低くかったと言われます。しかしドラクメはローマ帝国に通用する権威ある通貨ですから、和同開珎のようなものとは違います。

  ドラクメ10枚ですから10数万円程度です。やはりヘソクリでしょう。少ないですか?今の日本では、行くところに行けば、主婦のヘソクリは100万円単位かも知れません。

  私がヘソクリだとする理由は、銀貨を見つけた時、彼女は、「友達や近所の女たちを呼び集め」とあって、夫や家族を呼んでいないからです。夫に言っちゃあ、ヘソクリがバレちゃいますから、決して言えない。でも、友達や近所の女たちには言いたくて仕方ない。「来て、来て、見てよ、見てよ!」と大声で言ったでしょう。夫が仕事で家にいない時でしょうね。やはりヘソクリでしょうね。

  1枚をなくしたら、「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」目を皿のようにし、這いずり回って探す有様が滑稽ですが、滑稽なのは私たちに似た経験があるからでしょう。銀貨であるとは限りません。メガネだったり、コンタクトレンズであったり、この間は私のピロリ菌の薬がなくなったというのでひと悶着ありました。結果は、どうも私が飲まなかったのでなく、飲んだのでないかということになりました。私の胃の中まで探すわけにいきませんし沙汰止みになりました。飲んだか飲まなかったか忘れたのですから、もう酷い所まで来ているかも知れません。

  「ともし火をつけ」とあるのは、ローソクでなくランプです。油に布の灯心を浸して灯すランプです。古代です。家の窓は小さく、無論ガラス窓ではありません。板戸をつっかえ棒で上か、左右に開くだけで、部屋は日中も薄暗いですから、「ともし火をつけ」て、這い回って探しているわけです。

  「家を掃き」というのはよく分かりません。一部分は板張りでも、多くは土間だったでしょう。狭い家の中に、色々なものが雑然と置いてあったでしょう。犬も鶏も、ヤギも時々中に入ってくるような家です。家を掃くといっても、ゴミがうず高くある訳でなくても、「家を掃き」というニュアンスからすれば、なくなった銀貨は砂か埃か、そういったたぐいに紛れ込む可能性があったように感じます。要するに、掃除をしなければ見つからないほど、家の中が整頓されていない。別に皆さんの家のことを言っている訳ではありません。

  とにかく、「見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」と言うのです。家の中で無くしたのだから家に必ずある訳です。家の外に転がる筈がないのです。

  家と申しましたが、家はギリシャ語でオイコスといいます。家を建てるはオイコドメオーです。そして家の管理は、オイコノミアです。これらは、エコノミー、経済という言葉の語源です。経済とは一つの家を建てることであり、一つの家の管理であり、一つの家の形成だということです。エキメニカルも親戚筋の言葉です。

  横道にそれますが、経済というのは一つの家をどう建てるかの問題であるということです。無論家計もあり国の経済もあります。この場合の家は、世界という一つの家です。世界は一つの家族と言いますが、色々の国を超え、民族、言語を超えて、一つの家族として世界を見ていく、考えていく、それが21世紀の人類が向かっていることで、時計の針を70年、80年前に後退させてはなりません。

  それはキリスト教から来るわけですが、いかなる人間も神によって造られ、神の前に甚だ貴いわけですから、多様なこの人類を神の家族として、一つに形成していくという、遠大な旅の途上にあるのが人類の歴史だと考えていいでしょう。先日の祈祷会で、エフェソ1章の「あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」という言葉を学びましたが、神の家族として、やがて人類が1つに形成されていくことが示唆されていました。2000年の間に、現実の世界がゆっくりとイエスが言われた方に事実向かっていると思います。

  知恵遅れの人たちのラルシュ共同体を始めたJ.バニエという人が、「私たちは新しい文化を創造しているのです。誰であっても、宗教や国籍や、障がいのあるなしに関わらず、異なった人々が生きていける、小さなしるしとして。 すべての人に場所がある、そういう文化を創造しているのです」 と語っています。今はキリスト者などが、大胆にイスラムの中に入って、民族や宗教などの違いを超えた障がい者の共同体が作られていますが、それはまだごく小さなしるしです。だが、将来には一般にも広がるに違いありません。ここにもイエス・キリストの深い知恵があります。新しい文化の創造をしていきましょう。世界という新しい家の創造が少しでも進めば嬉しいことです。

  「家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」とありますが、どこの教会も伝道に励んでいるのは、神から離れている人たちを見つけるまで捜そうという活動です。

  今年も11月に、「おおやま便り」を1万部発行して、この付近一帯に各戸配布しようとしていますが、この配布も神様の目からどこかに行ってしまった人たちを探そうという小さな試みです。バザーも売上のことだけでなく、そこでそういう人たちに出会って行きたいという思いから行っています。ですから本末転倒してはならないと思います。教会がこの地にある意味は非常に大きいのです。

        (つづく)

                                      2014年1月19日



                                      板橋大山教会 上垣 勝



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