神なしでも、へっちゃらさ


                      さあ、チューリッヒ湖巡りに出かけます。     (右端クリックで拡大)
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                                           見つかった1匹の羊(中)
                                           ルカ15章1-7節
         

                              (3)
  「見失った」という言葉が3回出てきます。この言葉の元のギリシャ語には、「滅びんとしている」という意味もあります。襲われたり、谷に落ちたり、死が目と鼻の先に迫っていると感じている羊飼いの危機感を表しています。

  今から少し話が別の次元に移りますが、イエスは、この1匹の羊を見つけるために世に来られました。迷い出た、見失った、今にも滅びんとしている者、そこまで行かなくても悩みを抱えて苦しんでいる者を救い出すために来られました。

  私たちが社会で経験する悩みや苦労そしてトラブルは、私たちの人生の一部です。日本人はきれい好きです。現代人は、除菌技術の進化などと相まって、問題がない、トラブルがない人生が、本当の人生、本来の人生。それが幸福な人生だと考える傾向が生まれています。しかしそれは虚偽です。科学時代ですから、トラブルも、科学的に色々計算すれば、皆取り除けると思わせられたりしますが、実人生は実に複雑で、計算さえすればトラブルを除けるというような甘いものではありません。思わぬところからトラブルが起こるのが人生です。

  悩みや苦労そしてトラブルは、私たちの人生の一部だと申しました。イエスは人となられました。そしてイエスご自身、色々なことに悩み、試練を受け、祈り、苦しまれました。ゲッセマネにおいてそうでしたし、最後の十字架上において、また今日の箇所のように非難を受けたり、中傷されたり、ブーイングを受けたりもされました。しかし、ヘブライ人への手紙が語るように、ご自身がそれ程までに試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けて苦しむ人たちを助けることがお出来になるのです。

  このことは、私たちに希望を与えます。苦痛や悩み、トラブルや試練を経験している人は、もはや1人ではないのです。地球のどこか片隅に、1人置き去りにされているのではないのです。イエス様は、その人の所まで、失われて破滅が来そうになっている羊を探し求めて、その人の所まで行かれるのです。その人が気づかなくても、あらゆる時に、神はその人と共におられるのです。

  ドストエフスキーが、長編小説「カラマーゾフの兄弟」の中で、アリョーシャが、ヤケになった兄のミーチャ、何を仕出かすか分からなくなってしまった兄のミーチャを、街中の思い当たる所をくまなく探しまわるところがあります。印象的な場面です。その時、アリョーシャは、この羊飼いの心境だったと思います。ドストエフスキーは、今日のこの場面を思い描いて書いていたに違いありません。兄に罪をこれ以上犯させてはならない。これ以上、羊飼いである神から遠くへ行かないようにと、祈るような気持ちで必死に探します。

  「1匹の羊を見失った」というのですが、羊は、いつの間にか羊飼いに背を向け、先程の「花咲く野原の面白さに」釣られて行ってしまったのです。羊は自分一人で大丈夫だと考えたのです。独立し、自覚的に、自主的に行動することこそ一人前だと考えたのです。それで、羊飼いの言いつけを守らず、羊飼いのちょっと目を離した隙に行っちゃったのです。

  羊飼いがいなくても、へっちゃらさ。そこに彼の悪と愚かさと傲慢があります。それが彼の弱さでもあります。むろん今問題にしているのは、主なる神の前から、どこかへいなくなった私たち人間のことです。神なしであっても、へっちゃらさ。いや、神がいない方が自由で気楽さ…。だが神から離れ、神なしで勝手に生きる。だがそれは糸が切れた凧のようで、自分の存在の根拠がありませんから、心の根底にはいつも虚無が付きまといます。不安もあります。そこに彼の、彼女の傲慢がありますが、気位や意地があるのでなかなか素直になれない。傲慢の愚かさです。その結果、「失われ」、「滅びんとしている」という重大なことが起こるのです。

  だが、イエス・キリストは私たちの全ての罪を担って下さるのです。「見つけ出すまで捜し回り」、試練やトラブルに合い、狼の恐怖におののき、悩みや苦痛で困り果てている私たちを探し出し、見つけたら喜びのあまり肩に担いで、私たちが出て来た元の家に、神の家に連れ帰ってくださるのです。

  イエス・キリストは、私たちの罪が大きいものであっても、小さなものであっても、明白なものであっても、隠れたものであっても、その全ての罪を担って下さり、罪の人間そのものを、羊を肩に担いで帰るように、担いで、神のもとへと連れ帰って下さるのです。イエス・キリストが私たちの罪を担って下さるなら、最大の罪もどんなに恥ずかしい罪も、私たちを断罪することはできないのです。滅びんとしていた者も救いへと持ち運ばれるのです。今、どんなに恥ずかしい罪もと申しましたが、大きな罪だから恥ずかしいとは限りません。これっぽっちの小さな罪だから、実に恥ずかしい場合もあります。

  もしイエスが私たちに代理して下さらず、ご自分を十字架に付けられなかったならば、私たちの罪を、罪の私たちを身代わりになって担って下さらなかったならば、私たちは破滅した者、罪の重荷を担う人間として、不安を持って虚無の死のもとへと赴くしかないでしょう。

  だが、「見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」とイエスが言われたように、どんな人も捨てられたままだとか、諦められたままだとか、滅びるしかないのだとか、そういうことはないのです。どんな人も愛することをやめ給わないのです。イエスは、迷い出た一匹を助けるためにこそ、世に来られたのですから。神は、そのためにこそイエスを世に遣わされたのですから。


          (つづく)

                                      2014年1月12日



                                      板橋大山教会 上垣 勝



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