花咲く野原の面白さに


有名な宗教改革者H.ツイングリが、町のフェスティバルで哀れ10台程の移動式トイレの後ろに立たされていました。日本なら多分、「無礼者!」でしょうね。





                                           見つかった1匹の羊
                                           ルカ15章1-7節
         

                              (1)
  今日の箇所は非常に興味深いところです。イエス様はどういう人たちと交わられたか。また教会はどういう人と共にいるべきか。色々と考えさせられることが多くあります。

  今日の1節に、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」とありました。日本語では、「皆」という言葉の意味がはっきりしませんが、皆とは、その近辺のすべての徴税人や罪人という意味です。従って英語の聖書は、「沢山の徴税人や罪人」としています。この方が、意味がはっきりします。

  イエスの周りに「話を聞こうとして」集まったのは、殆どがこういう人たちであったということです。学者や役人、宗教家や指導者など、偉い人たちでなく身分の低い人たちばかりでした。そういう人たちが、ウジャウジャと沢山聞きに来た。

  昔は、日本では、酷い差別語だと思いますが、「穢多(えた)」、「非人(ひにん)」などと言ったりしました。非人、人にあらずと、そんな呼び方で自尊心を奪いました。差別的蔑称だと思います。この時、イエスの周りに集まったのは、当時のそれに近い人たちであったということでしょう。

  彼らは社会からそんな目で見られ、そう扱われて、人としての魂の激しい渇きを抱いていたに違いありません。パキスタン人のマララさんのことは秋に数回お話しましたが、女の子にも男の子と同じように教育を受けさせて欲しい、教育は万人に与えられるべき権利であると訴えていますが、彼女は、ここに集まった人たちと同じような激しい魂の渇きを持っているのだと思います。また、これほど多くのそういう人が来たのは、イエス様に、人間を解放する魅力的な力があったからです。

  すると、それを見た「ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」とあります。「不平」とあるのは、大勢の者が集まって、ガヤガヤと言って騒ぐことを指しています。ですから不穏な空気が現れたかも知れません。

  英訳では、「罪人」をアウト・カーストと訳しているのが幾つかあります。一般人から除外された、社会の最下層の「賤民」の意味です。当時、罪人との食事は厳しく禁じられていました。彼らと接触すれば汚れが移って汚されると考えらたからで、嫌(いや)だ、汚らわしい、身の毛もよだつと鼻をつまんで避けられたのです。

  もう数年前、リフォームをしてあの見すぼらしい教会が新しくなった頃、上品な親子が何度か礼拝に来られたことがありました。お母さんも娘さんもどこか他教派で洗礼を受けておられました。娘さんの方は、確か通訳か日常的に外国語を使って仕事をしている人だったと記憶します。この教会はいい教会ですね。見学させて下さいと言って、ニコニコして来ていました。

  ところが、私が説教の中で何かのことに触れて、「この教会は貧しい教会で、外車など持つ人は一人もいません」と申しました。すると、翌週からぱったり来なくなりました。冗談半分でしたが、口が滑ったと思いましたね。週報をお届けしてもナシのつぶてで、あれだけ心を開いていたのにシャッタウトされ、不思議でした。もしかすると、家に外車が数台ある方だったかも知れません。そんな人は来る所ではないとか言っていないのですが、いや、そんな方も来ていただきたいのですが、カチンと頭に来ることがあったのでしょう。いずれにせよ口は災いの元になりますから、私を反面教師にして、ご注意ください。

  そのことはさておき、イエス様が大勢の罪人たちに取り囲まれて話をしていると知って、ファリサイ派や律法学者たちは、不潔だ、汚らわしいと、騒々しいまでにブーイングをしたのです。

                              (2)
  そこでイエスは、いなくなった一匹の羊の譬えを話されました。もう何度も耳にしておられ、有名な絵にもなっている譬えです。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

  羊は自由に草を求めて歩き回りますから、百匹もいますと、羊飼いはこの塊り、向こうの塊り、そしてその向こうのと、あちこち見守らなければなりません。見守っているうちに、1匹がいつの間にか集団から離れてどこかに行ってしまった。注意深く見守っていたが見失った。先ほど歌った賛美歌に、#花咲く野原の面白さに#、帰る道さえ忘れましたとありましたが、そういうところでしょう。

  美味しいものや珍しいもの、面白さや強い誘惑に負けてどこかに行ってしまった。それで羊飼いは、この羊を「見つけ出すまで探し回らないだろうか」とあるように、崖を登り、谷に降り、日が沈んでも探すのです。この羊飼いは良い羊飼いです。杜撰(ずさん)な、無責任な、悪い羊飼いではない。狼が来れば逃げ出す雇い人ではない。「見つけ出すまで探し回る」程ですから、狼が来ればそれとも果敢に戦う羊飼いでしょう。

  1匹のために、目の色変えて探し回っているのは、付近には狼が多く、襲われたら大変だからです。自分が守ってあげなければ誰も守ってくれないのが分かっているからです。

  トマス福音書というのが、聖書外典にあります。そこには、羊飼いが見つけた羊にこう言います。「私がお前を愛するのは、お前がどの羊よりも大きかったからだ。」どの羊よりも大きく、立派で、高い値段で売れるから、お前をどこまでも探したのだというのです。経済的価値で考えている。これじゃあ、やはり聖書の正典には相応しくありません。神様は、1人の人間を経済的価値で見られません。そういう価値を超えて見ておられます。

  見失ったと知った瞬間、羊飼いの脳裏にパッとその羊の顔が浮かんだでしょう。それは羊を愛しているからです。アイツ、どこへ行ったんだろう。帰って来るだろうか。狼が出るのにアイツは馬鹿だからなあとか。それは彼を大切に思っているからです。

          (つづく)

                                      2014年1月12日



                                      板橋大山教会 上垣 勝



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