塩味を備える


      これが、そのハンガリアの有名なTrdelnik? いいえ、8歳になった子が作った作品でした。
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                                            塩味を備える (下)
                                            ルカ14章34-35節



                              (2)
  そうなれば、廃棄物として捨てられるだけです。そう語って、イエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのです。では、私たちは塩味をなくした塩の譬えから、どう聞けばいいのでしょうか。

  幾つかの方向からお話します。1つは、この14章全体が語って来たことからです。イエスは、安息日に、ファリサイ派のリーダーの家に食事に呼ばれました。すると目の前に水腫を患う病気の人がいた。部屋には、リーダーの主人だけでなく、ファリサイ人や律法学者が大勢険しい目でイエスを見守っていました。だがイエス様は、安息日の厳しい掟に拘らず、病人を癒されたのです。イエスは厳しい顔の権威者の前でも何も悪びれず、恐れず、自由に振舞われました。そして、権威を振るっている人に騙(だま)されるなと説かれました。むしろ、上に立つ者は低くなりなさい。仕える者になりなさい。宴会には、貧しい人や体の不自由な人、障碍を持って苦労している人を招き、彼らと友になりなさいとおっしゃいました。そしてイエスご自身は、そういう人たちの兄弟になり、対等な者として振舞われました。

  主なる神は、全ての人を例外なく、一個の貴いかけがえのない存在としてお造りになり、揺るぎない価値を授けられています。イエスは、マタイ福音書で、一日1デナリで雇われた労働者の譬えをして、朝早くから雇われた者にも、夕方になって雇われた者にも同じ1デナリを主人は支払ったと言われました。あの譬えで、イエスは、私たちは皆どんな人間も、1人1デナリという同等の価値を授けられていると語られたのです。働きの量は違うかも知れない。だが、人皆に同じ尊厳が授けられているということです。

  これが塩味の一つの意味です。こう見ると、誰とも恐れなしに、対等に、しかも尊敬を持って接することができるでしょう。

  詩編37篇3、4節に、「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らを委ねよ。主はあなたの心の願いを叶えて下さる」とあります。

  自分が今いる地、その地を信頼し、そこにしっかり根を下ろして生きなさいということです。種が育つのは、蒔かれた場所にじっとしている場合だけです。ここは自分は合わないと言って変わり、新しい所でまた、ここも私は合わないといってドンドン変わっていては、折角芽を出せるのに出せずに終わるでしょう。神はこの地に私を蒔かれたと、自分が成長するのに必要なものがその土地にも自分にもすべて備えられていると信頼する。神がそのような土地と自分を用意して下さっていると信頼するのです。すると安らぎがあります。すると自分らしい塩味を出していける。

  それが「信仰を糧とせよ。主に自らを委ねよ」ということです。主は全てを備えて下さる。だから安んじて生きなさい。思い煩うなということです。

  2つ目は、日本で報道されていないと思いますが、最近イギリスであったことです。ある大きな病院で、患者の肝臓の手術をした外科医が訴えられました。手術は無事に成功したのですが訴えられたのです。というのは、その医者は、手術をして肝臓に自分の名前のイニシャルを焼印していたと言うことが分かったからです。

  まるでエベレストや月に国旗を立てるようなものですが、この場合は患者の臓器に自分の功績を留(とど)める名を書き残すという、人の命の尊厳でなく自分の功名心を残そうとする医の倫理の欠如です。愛を失った医の倫理が厳しく問われたのです。

  これは、医者としての塩味、倫理を失うことです。医者本来の使命を見失い、愛を失い、思いやりを失って、患者の肉体が自分の名誉心のために使われている。

  これはどの世界でも、どの分野でも起こりうることだと思います。たまたま医者だから高い倫理が求められただけではないかと思います。

  3つ目は、日本キリスト教海外医療協力会JOCSの機関紙「共に生きる」の最新号で知ったことですが、98歳で先日亡くなられた田村久弥医師のことです。田村さんは、日本キリスト教海外医療協力会の派遣医師として、インドネシアで奉仕されました。その当時は私もよくお聞きしていましたが、最初の3年間に経験した最大の危機は、全土に及んだクーデターで、田村さんがいた東ジャワはその渦中にあって、たった2か月間で30万人の共産党員及びその家族が殺されるというこの世の地獄だったそうです。

  人口30万人の地域に、開腹手術のできるのは田村さん一人だったそうで、壮絶な日々の生活が本にされています。

  田村さんを海外の医療奉仕に駆り立てたのは、戦時中の軍医体験だったそうです。15師団の軍医として、ビルマインパール作戦の最前線に駆り出されました。壮絶な戦闘のすえ部隊は全滅。同僚の軍医は死に、田村さんは辛くも生き延びることができた。というのは、迫撃砲弾で重傷を負ったからです。それで後送されて助かったのです。でも、同僚の軍医がすぐ後ろで直撃弾を受けて即死した時のヒューッとかすめる銃弾の音を、60年後も鮮かに覚えていたそうです。

  運命の紙一重の差で助かった。いつかこの埋め合わせをせねばならないと心に誓い、日本軍に踏み荒らされ迷惑を受けた人々への償いの業をせねばならぬという思い、日本の侵略と戦争責任を覚えて発展途上国の草の根で生きる人たちの中に入って医療奉仕をされました。その関わりは半世紀に及んだそうです。

  戦争の償い。弱くされた人の側に立つ。先程申しましたように、この14章でイエス様は、小さく、貧しく、弱くされた人たちを招きなさい。仕えなさいとおっしゃいましたが、ここに田村医師の塩味の効いた働きの原点があったのだと思います。

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  結論を申しますと、塩味を失うとは愛を失うことです。親切や思いやりを失うことです。隣人を失うことです。自己中心の欲を貫くことです。その時には神も失っていることでしょう。それは人としての一番大事なもの、人の命となるもの、自らの尊厳を失うことです。

  それは神様から造られた自分を失うことです。イエスは、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命となるものを失ったら何の得になろうか」とおっしゃいました。どんなに名誉を得、名声を博し、多くの何かを獲得しても何もなりません。

  だが自分を他者のために使うこと。十分でなくても、僅かでも、僕となって出来るだけ謙虚に愛し仕えること。塩味を備えて生きる時に、人生を生きる意味が生まれます。

  イエスは別の箇所で、「あなた方は地の塩である。世の光である」と言われました。塩味をすぐ失ってしまう者なのに、それでも「あなたは地の塩である」と言われるのです。あなたは神にそう見られている。あなたの本質、あなたの本来の姿、それは地の塩です。塩味を失ってしまったと失望してはならないのです。悲嘆して、さらにはヤケになっちまって、後ずさりして神から離れて行ってはならないのです。もう一度、私との関係を取り戻しなさい。そうすれば、今もあなたは地の塩であり、これからも地の塩であるでしょうと言われたのです。

  イエスは私たちの真の隣人なのです。私たちを愛し、私たちの命が失われないように、祈りを持って接して下さっているのです。

  そして今日の箇所では、「確かに塩は良いものだ。だが塩も塩気がなくなれば、……畑にも肥料にも役立たず、……聞く耳のある者は聞きなさい」と言われるのです。

  ここに、自分に対するイエスの愛の言葉を聞く人は幸いです。私たちを真に貴く扱われるお方ですから、私たちが人生を価値あるように、正しく生きることを願ってやまれないのです。

  2013年が閉じられようとしています。今日を含め後3日間でも、この御言葉を味わって生きたいと思います。その時、次の年をどう過ごすかも、自ずと明らかになって来るに違いありません。


        (完)

                                      2013年12月29日


                                      板橋大山教会 上垣 勝



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