これがクリスマスのメッセージです


                   フラウ・ミュンスター教会の前で50人のバイオリン合奏
                                      (右画面クリックで拡大 )
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                                           寡黙(かもく)な男 (下)
                                           マタイ1章18-25節
        

                              (3)
  最後になりますが、「イエスの誕生の次第は次のようであった…」と記された後、22節以下で、「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と書かれて、750年ほど前に預言者イザヤが語った、先程交読しましたイザヤ書7章の言葉が引用されていました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」とありました。

  今日の中心はここにあります。

  インマヌエル、「神は我々と共におられる」とは、無論ヨセフたち聖家族一家と共におられるという意味を持っています。しかしそこに留まらず、それを超えて、彼らだけでなく罪の中にいる万民と共におられるという意味です。聖人とだけ共にというのでなく、原罪の罪を負う我ら人間と共に、地獄に落ちるべき存在であってもその者とも共にあって下さるという意味です。ということは、いかなる絶望を抱え、暗闇の中に生きる者とも、主なる神は共にいて下さるということです。

  品行方正な良い人とだけじゃあない。人間の一番悪い所、醜い所、闇、罪の塊である所に入り込み、私たち罪人と結びつき、そういう者と共にあろうと永遠に決意して下さったということです。500年以上も昔に預言された神の永遠の決意がここに成就し、実現したということです。

  それが、イエス。「この子は自分の民を罪から救うからである」と言われた内容です。

  今日はマタイの初めにある系図からでなく、18節以下をお読み頂きましたが、本当は、今日の所は系図と密接な関係があります。

  というのはイエス系図が語るのは、人間のどうしようもない性のトラブル、争いのトラブル、戦争と憎しみのトラブル、倍返しという言葉が流行りますが、目には目、歯には歯のやられればやり返す際限ない悪循環。それが私たちが生きている現実社会です。それがこの世です。そういう罪の縮図、歴史が、この系図に示されていることです。時間がなくて詳しく申しませんが、もう救いようがない程の罪の歴史です。どこにも一寸の希望も見えない歴史。それが系図で示されています。

  だが、そんな闇の中に神が我らと共におられ、神の憐れみの光が輝いているのです。いかに闇が深まり、闇だけになり、救いも未来も見えなくなっても、神は我らと共におられ、必ず救いの出口が与えられるというのです。闇の中に光を輝かせるために、寡黙な男性ヨセフが起用されたのです。

  人類は神を失い、一点の希望もなくすことがあります。だが聖書はいかに人間が神を喪失しても、神は人間を喪失することはないのだと語ります。いかに人間が神と福音に敵対しても、人間に対しての神の敵対ということは決してないということです。人間は神を見失うことがあります。だが神は人間を見失われないのです。

  これがクリスマスが私たちに告げるメッセージです。クリスマスにおいて、イエス・キリストは神を失った人間、自分の真の存在の根拠を失った人間を探し出すために来られたのです。

  今日の礼拝は、クリスマスの喜び、神が我らと共におられる喜びを共に祝う時です。私たちは闇の中にあろうが神の光は来て下さるし、私たちの間に宿るのです。そしてこの光は、いかなる困難な環境に置かれている人にも届くのです。恐れる必要はないのです。諦めることはないのです。

  今年も、あと10日程を残すのみです。しかし教会の暦では、一足早く既に新年が始まっています。教会の暦では今は待降節第4週ですが、第1週から新年が始まっています。イエス・キリストが、希望の主が、私たちの所に来ていると教会の暦は告げています。世の光、キリストを信じるなら、案ずる必要はない。思い煩うな。主はあなたと共におられる、頭(こうべ)を高く上げて進んでいこうと告げているのです。

  このあと聖餐式があります。キリストの体を示すパンと、私たちの罪のために流された血を示すぶどう酒を頂きます。聖餐が私たちに与えて下さるのは、「パンとぶどう酒の外見のもとに隠れておられる、小さく、貧しく、低くなられた神です。」(J.バニエ)神はご自身、小さく、貧しく、低い者となり、私たち小さく、貧しく、低い者に、ご自身を与えるために、立派な御殿でなく、ボロに包まれ、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったのです。

  パンとぶどう酒を味わう時、イエス・キリストとの交わりを体で味わうのです。私たちの中に恵みの主が来られたこと。キリストが私たちの中に生き、私たちがキリストの内に生かされることを味わうのです。そして、神が我々と共にあろうと永遠に決意されたことを味わうのです。(J.バニエ)

  しばらく前に亡くなった、南アフリカマンデラさんは、「楽天的であるのに必要なことは、自分の頭を太陽の方に向け続けることである。そして自分の足を前方に向かって動かすことである」と語りました。ユーモアにあふれた方でした。

  キリストのところには希望があります。希望を持ち続けるには、頭を高く上げて、万物を照らす太陽、いや太陽も月も創造された偉大なまことの主なる神に目を向け続けることです。そして、大地を踏みしめ、自分の足を前方に向かって一足一足動かすことです。

        (完)

                                       2013年12月22日


                                       板橋大山教会 上垣 勝



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