難民ヨセフたち


    水上フェスティバルの間、街の一角に絶叫マシーンが据え付けられていました。街の一角ですよ!
                                      (右画面クリックで拡大 )
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                                           寡黙(かもく)な男 (中)
                                           マタイ1章18-25節
        

                              (1)
  さて今日の聖書は、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とありました。

  「正しい人であった」とは、ユダヤ教の律法を守って生きる清潔な人であった。律法というのは旧約聖書にある戒律ですが、彼は罪を犯さず、不正をしない、品行方正な人物であったということです。そういう人ですから、マリアが妊娠したと聞き、すぐに離縁を決めたのです。

  当然でしょう。裏切りです。普通の男なら猛(たけ)り狂ったでしょう。愛憎無限です。愛すればこそ憎しみは何倍も激しく募ったでしょう。このふしだらな女と二度と顔を合わせまいと思った筈です。

  だが彼は寡黙であると共に、理性の人でした。それで、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」のです。鋼鉄のごとく理性を働かせる人物だったのです。

  こんにち、マリアの妊娠について、大きく分けて不倫説、ローマ兵による暴行説、そしてむろん処女懐胎説があります。いずれにしろ、マリアの妊娠を知ってヨセフは驚愕しました。だが表沙汰にすれば、彼女は不倫の罪で石打ちの刑で殺されます。今日でもイスラム教国でよくあることです。だが彼は、彼女がそうなるのを望まず、密かに離縁しようとしたのです。

  未練はなかったものの、鋼(はがね)のごとき理性を働かせたのです。そこに彼の思いやりといたわりを感じます。それにしても彼は常識的な現実家でした。世間の目を恐れてもいたのです。マリアのためだけでなく、自己保身からも縁を切ろうとしたのです。

  今日は触れませんが、この時のマリアは実に孤独でした。夫となる信頼していた人から、無実を理解してもらえなかったのです。しかし誰が彼女の無実を信用できたでしょう。処女懐胎。これほど理不尽な、デタラメな言い訳はありません。だが、それがマリアの身に事実起こったのですから、「お言葉通りこの身になりますように」と決断したマリアの置かれた厳しい孤独と信仰の強さを思わずにおれません。

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  そういう中で、ヨセフは夢で御使いの言葉を聞いたのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

  彼は潔癖家でした。いかなる罪も寄せ付けない、正しい人でした。だから婚約を解消しようとした。当然です。だが彼はそこにとどまらず、御使いとの出会いすなわち神との出会いで、やがて恐れない人に大きく造り変えられて行ったのです。潔癖な人から、大胆で、恐れない、神に従う人に造り変えられて行った。

  潔癖だけだと人間は脆いです。折れやすい。ヨセフは自分の主張、正しさを貫徹する人でした。だが、それを神に造り変えられ、もっと大きく、もっと広く、強さと大胆さ、勇気を持つ人に造られて、神に用いられて行ったのです。

  それで彼は大胆不敵にも、身重になったマリアを妻として迎えたのです。先の決心を取り消し、勇敢にもこの女性を迎えたのです。恐るべき決断です。しかも決断は早かった。眠りから覚めると、直ちに決断したとあります。実に潔い人物です。

  しかもその決断は一時ではありません。生涯この決断を持ち運びました。彼は早死して、この後15年ほど生きるのみですが、生涯、右にも左にも逸れなかったのです。この朴訥(ぼくとつ)な、寡黙(かもく)な男は、芯(しん)が通っていたのです。

  生涯その決断を持ち運んだことは、どこから分かるでしょうか。それは、この後2章にあるように、一介の大工でありながら、神の言葉に導かれて、ヘロデ大王に断固抵抗して、幼子と母マリアを守るためにエジプトへ亡命したからです。

  日本人は難民というのはあまり馴染みがありませんが、彼らは大変な状況に置かれます。知人のポーランド人は、ナチスの侵略でロシアに逃げ、シベリアの難民キャンプに移されました。零下40度です。郷里を後にした時、知人はまだ1才にもなっていませんでした。それとは反対に、ヨセフたちが通ったアラバの砂漠やシナイの砂漠は、気温が60度、70度になります。そこを生後間もない赤ちゃんと産後まもない初産の若妻を連れて何十日も旅し、逃亡したのです。彼の勇気と不屈の意志力には驚きます。神に導かれる者とはこういう者かと思ったります。聖家族はこうしてエジプトにたどり着いて難民生活を数年送りました。

  やがてヘロデ大王が紀元前4年に死にます。それを聞き、再び御使いに示されて、彼は家族を連れてユダヤに帰国しますが、息子のアルケラオが後を継いだと知って、やはり神に導かれて生活のより困難なガリラヤの山あいの小村ナザレに移り住みました。いわば地下に潜って、この子が大人になるまで責任をもって育てたのです。

  事の起こりは、夢に現れた御使いとの出会いでした。たかが夢です。しかも、彼女は聖霊によって身ごもったと言う、理性的には受け入れがたいことを受け入れたのです。夢のことがあって最初の決心を翻し、たわいない戯言(たわごと)に騙(だま)されるとは、実に愚かだと、皆さん思わないでしょうか。皆さんは思わなくても、私は思います。

  そうです。理性の人ヨセフは愚かさに生きたと言えるでしょう。だが、その愚かさは神に用いられた愚かさです。この愚かさへの決断があって、イエス・キリストという人物が世界に登場するのです。彼の愚かさがあった。その時、歴史が動いたのです。

  それにしても彼は、御使いの言葉を、心の深層部分への語りかけとして聞いたに違いありません。表面でなく、心の最も深い深層でキャッチした。その結果、離縁の決意を遥かに超えて、いわく言い難いリアリティを持って御使いの言葉が迫ってきて、マリアを妻として迎えたのです。


        (つづく)

                                       2013年12月22日


                                       板橋大山教会 上垣 勝



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