寡黙(かもく)な男
St.ピーター教会界隈は路地に入ると職人たちの素敵なお店があちこちにあります。
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寡黙な男 (上)
マタイ1章18-25節
(序)
クリスマスの出来事を考えてみると、男性は添え物のような扱いです。ヨセフは、私のように影の薄い男です。それで、今日は男の応援団をしまして、このヨセフを引き立たせようと思います。
確かにヨーロッパの美術館を巡りましても、イエスの誕生の場面を描いた絵は、いずれもヨセフの姿を控え目に描いています。また幼子を抱くマリアは描かれても、幼子を抱く父ヨセフの絵は殆どありません。
聖書を繰りましても、マリアの言葉は幾つも書き留められ、有名な「お言葉通りこの身になりますように」という言葉を筆頭に、マリアの賛歌は、今もメロディをつけて歌われますし、イエスの誕生の場面以外にも、マリアの姿はあちこちに垣間見られます。
しかしヨセフの姿は、今日の所と次の2章だけで、他にはどこも出てきません。それに、彼の言葉は一言も書き留められていないのです。後で詳しく申しますが、マリアを妻として迎えることで、彼は天地がひっくり返るような経験をするのに言葉は一言も残されていません。
聾唖者でないのに、どこにも見当たらないのは、彼は実に言葉少ない寡黙な男であったということでしょう。
現代は言葉の時代です。言葉が洪水のように溢れるおしゃべり時代です。歩きながらマイクを通して友達と話しています。数年前、知らずに初めてそんな場面に接した時、この青年は何だろう、気持ち悪いと思いました。昔は職人さんなどに言葉の少ない人がいました。必要な時以外は喋らず、一日殆ど言葉を発しない人もいたようです。大工のヨセフも、そういう職人の一人であったかも知れません。
彼は寡黙でした。だが御使いが夢に現れ、自分に与えられた使命を知った時、無言の内に決然と決断をしたのです。不言実行の人物であったのでしょう。マリアの方は、み告げを受けて、「お言葉通り、この身になりますように」と応じたとルカ福音書にありますが、彼は無言のまま心の中で、「お言葉通り、この身になりますように。マリアを妻として迎えます」と語ったのだと思います。
「巧言令色少なし仁」と論語にあります。言葉巧みで物腰が柔らかい。そういう人に限って誠実な人は殆どいない。仁とは愛です。そういう人間ほど、愛に欠けると孔子は言うのです。意味深長で聞くべき所があります。
無論、神は雄弁な人、口八丁手八丁の人も用いられますし、そんな方にも誠実な人が沢山います。
だが、口下手で、言葉を操るのが得意でない。寡黙な不言実行の人を、神はイエスの父として用いられたのです。そこに神の深い知恵を感じます。口下手はしばしば劣等感を植え付けますが、神は不思議な方で、そういう人をしばしば大切な仕事に起用されたと聖書にあります。モーセがそうでした。その口下手は有名です。そのため、「私は弁が立ちません」と、神からの召しを再三辞退しました。預言者エレミヤも、預言者として立てられた時は、語るべき言葉を持たない人であったと記されています。
(つづく)
2013年12月22日
板橋大山教会 上垣 勝
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