中心が抜け落ちちゃダメだよ


チューリッヒグロスミュンスタージャコメッティのステンドグラスに魅了されました。丁度三人の博士です。                                      
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                                             愛を目指す (下)
                                             Ⅰテモテ1章3-11節



                              (3)
  7節は、「彼らは、自分の言っていることも主張している事柄についても理解していないのに、律法の教師でありたいと思っています」とあります。

  教会とはどういうものか彼らは分かっていないと言うのです。そのため、自分が語り、主張していることが何を意味しているか本当には理解していない。それにも拘らず、「律法の教師でありたいと思って」いる。

  パウロは非常に面白いことを指摘しています。彼らは律法の教師、法律の教師であることを自認している。今日では大学の法学部で教えているというようなことでしょう。ですから、自分の説く法解釈は正しい。自分は「法律の専門家だ」と言う。無論そうかも知れない。だが愛を失っているのです。愛を目指してもいないし、生きてもいないのです。中心が抜け落ちている。そこが大変おかしいというのです

  「愛を目指す」のが教会だ、愛こそ教会を造り上げるということにおいては、法律の教師であるなしを問わず、自分を反省すべきでしょうに、それはしないで、自分こそ教える者、教師でありたい、上に立ちたいと思っているということです。

  先に進みますと、パウロは、律法は、「正しく用いるなら良いものである」と語って、「不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、……その他、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられている」と言います。

  単純化して裏から言えば、律法も法律も本来は愛を目指すものである。愛を目指すというこの中心部分を落とさずに用いるなら、まことに有益であるということです。だが、無益な議論に陥り、「産湯と共に赤子をも流す」という西洋の諺がありますが、律法の教師を任じる者が肝心要の愛をすっかり流してしまう。そういうことが起こる事への、懸念です。それをテモテからエフェソ教会の人たちに語って下さいということです。

  教会は終末を目指して、神の国を目指して旅をしていると考えています。これを教会は終末的な群れであるといいます。最終的な決着が神の前でつけられるし、神は私たちの一切を必ず裁いて下さると考えています。ですから安倍政権が何をしようと、どんなに傲慢に振る舞い、近年稀に見る民主主義国で決議された最悪の法律だとアメリカの団体が声明を発しましたが、この政権も確実に最後は神の裁きの下に言い開きをしなければなりません。

  そして終末を信じるからこそ、私たちは、「御国を来たらせたまえ」と祈り、主の御心が、「天になるごとく、地にもなさせ給え」と祈って生きるのです。「地にもなさせ給え」、神のみ心が地上でもなさせて下さいの祈りを授けられているのは何と力強い希望でしょう。ですから、この祈りを忘れてしまったら、教会は地の塩、世の光でなくなってしまいます。

  言葉を変えれば、これも地上で「愛を目指す」ことです。裁きを目指すのではありません。愛を目指す。これが、パウロがテモテに宛てて勧め、諸教会に勧告していることです。

  蛇足になるかも知れませんが、私たちは実に愛から逸れやすい者です。最初は愛を目指していても、いつの間にか逸れて、変てこなものになっちゃうことがありはしないでしょうか。

  私は「おおやま便り」に、家庭や工場から石神井川に流される排水のことを書いて、下流では洗剤の泡がかなり酷くなることがあると書きました。そして今年は石神井川界隈の家を中心に11月に配っていました。ところが11月は意外に雨が多く、すると川の水量が増えて、その度に川の流れがきれいになるのです。洗剤の泡がなくなるのです。

  すると私の心は穏やかでないのですね。大山教会はデタラメを書いていると見られはすまいか。誇張していると思われないか。そんな事でヒヤヒヤして配っていました。実に小心な男です。

  ところが12月に入ると晴天続きになり、特に下流で洗剤の泡が酷くなっています。すると、私の心はホッとしているのですね。泡が多くなって、ああ、良かったみたいな格好です。北から飛来したカモたちが悲しくも泡の中で泳いでいるのにです。これは私の罪のなせる業です。我が心の汚染が露呈しているのです。

  愛から逸れ、キリストから逸れると、キリスト教の牧師もとんでもない者になる。自分がどう見られるかで一喜一憂してしまう。このことを告白して、お話を終わらせていただきます。


          (完)

                                       2013年12月8日




                                       板橋大山教会 上垣 勝



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