イエス時代からのキリスト教徒


             水上スポーツ大会のカーニバル前に民族衣装で勢ぞろいして記念撮影しました                                       
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                                             愛を目指す (上)
                                             Ⅰテモテ1章3-11節


                              (1)
  テモテへの手紙に久しぶりにまた戻りましたが、この手紙はテモテ個人に宛てられた実に地味な手紙で、華やかさが乏しいものです。しかし堅牢さがあります。ですから、地味は地味で良さがあるわけで、それを考えて学んで行きましょう。

  先ず3節以下に、「マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。…」とありました。

  パウロは、現在のトルコのエフェソからエーゲ海を船でヨーロッパ側のマケドニア地方への旅に先立ち、青年伝道者テモテに、パウロの心を支配していた気がかりな事、教会を建てる事における懸念を述べて、ぜひこのことについて「ある人々に命じ」て欲しいと語るのです。

  本題に入る前に、まず幾つかの言葉の短い説明をしますと、異なる教えとあるのは、福音に基づかない擬似的なキリスト教です。キリストでなく、他の思想や原理や哲学から出てきた教えです。作り話とは、虚構とも訳せる言葉で、聖書やイエスの出来事を脚色したり、大きく改作して作った話です。今日、聖書以外に外典とか偽典というのがありますが、キリスト教の神話伝説のようなものです。系図は、家系や血統ですが、非常に長い先祖たちのリストを指します。無意味な詮索は、大切なことを論じるのはいいですが、系図や作り話など事実に基づかない、無意味なことを追求し議論することです。5節の愛は、アガペーという言葉が使われていますから、神の愛、聖なる愛ですが、そこに留まらず、それが現実生活の中で具体化する愛の働きです。無益な議論とは、虚しい、空疎な話です。空理空論、愚にもつかぬ建設的でない議論です。これも系図や作り話に関係があります。律法とは、一般的には法律や規則、掟のことですが、ここではモーセ十戒十戒から生み出された様々な律法の規則です。

  パウロは、キリストの教会を建てようとする時に、異なる教えや作り話を土台にして建てることはできないというのです。そういうものが土台になれば、教会は歪むし、歪むだけでなく容易に崩壊するからです。

  系図などに心を奪われていると、出身や血統や血のつながりと言ったものに左右されて、誰はどういう家系、家柄というような話になり、ヨハネ福音書1章が説くように、キリストは、「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」といった、真実な教会が建ち上がらないからだと言おうとしているのでしょう。

  当時はまだ初代教会の時代です。中には、イエスパウロと自分の家系のつながりを強引につなげる人がいたかも知れません。イギリスにいた時、イスラエルのカナ出身の青年が来ていて、彼の家庭はイエス時代からのキリスト教徒だと言っていました。彼はそれを誇ろうとしませんでしたが、系図がもてはやされると、そういうものが幅を効かしかねず、教会は歪みかねません。日本の教会は高々古くて160年でしょう。ところが祖父は何々教会の長老だったとか、何とかミッション・スクール出身でございますとか、信仰の中身でなくネーム・バリューや伝統や社会的地位が教会内で大事にされていることがあります。全くそれは信仰の在り方と関係ありません。だから、そういうものに「心を奪われたりしないようにと」命じなさいと語ったのです。

  キリストの教会は堅固です。だが時に、至って崩れやすいのです。特に異なる福音とあるような擬似的なキリスト教が入って来ると教会は混乱します。どうして混乱するか。そういうのは似ていますから、かなり勉強していなければ違いが分からないのです。ところが教会は人間で構成されていますから、人の好みがあります。異なる福音の人でも、人間としては好きなタイプの場合、その人が批判されると仲が良ければ良いほどその人をかばいたいです。それが人の自然な人情です。それで擁護して、人間の弱さですが、擁護だけでなくその人を持ち上げたりする場合があります。ある大きな教会に、信頼されて教会役員になった人がいました。ところが、やがてその人が統一原理だと分かったのです。なに食わぬ顔で入って来ていたのですね。大変でした。そのケースは早く気づいたから良かったのですが、手遅れになれば今頃、大変になっていることでしょう。

  O先生は30年間この教会の牧師をされて、何度かそんな手痛い経験をされました。一時は先生が教会から追い出されかかかったこともあったのです。書かれざる教会の歴史ですね。彼らは大学の哲学教授だったり、雄弁家だったりしたようで、そういうものに他の人達が心酔し、福音が疎かにされ、打撃を受ける場合があるわけです。

  「このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします」とありますが、系図や作り話というのは、誇張を伴いますし、家系のつながりの強引な強調、そして家系は隠すことも生まれます。すると互の疑い、疑心暗鬼も生まれ、やっかみも生まれます。これではキリストの教会が人の思惑に弄ばれてしっかりと建つわけがありません。

          (つづく)

                                       2013年12月8日




                                       板橋大山教会 上垣 勝



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