洗礼について


                     アンデルマットを出発して急勾配に向かう氷河特急
                                           (右端クリックで拡大)





                                       荒れ野で叫ぶ者の声がする (下)
                                       マルコ1章1-8節


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  次に、洗礼者ヨハネは多くの人に洗礼を授け、今日の続きにあるように、やがてイエスにも洗礼を授けましたが、今日の所で、「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言ったということを考えたいと思います。

  この一つの意味は、彼は自分の限界を知っていたことです。水の洗礼は形式的な、表面的な、儀式的な洗礼という意味を持っています。彼は限界を知りながら水の洗礼を授けました。

  それは、水の洗礼によって、神が働いてくださる聖霊による洗礼を指し示そうとしたからです。自分には限界があります。だが人の限界を越えて神の洗礼を指し示そうとする。そこに彼のまことに誠実な人柄とその存在意義があります。いや、いかなる洗礼も人間によってなされる限り、それはそれを超えて神によるまことの洗礼を指差そうとしているのです。

  なぜ洗礼を受けるのか。それは、信仰が主観的な思い込みになり易いからです。誰でも非常に強固な信仰でも、ガラガラと一気に崩れることがあるのをご存知でしょう。ご自分、それを感じておられるかも知れません。私たちはそこにおいてその限界を知り、人間の卑小さを知ります。だが、聖霊による洗礼は言わば焼印です。焼印は焼きごてを真っ赤な火に突っ込まれて熱く熱せられ、それを対象物に当てて焼印をつけます。

  聖霊による洗礼は、神様がなされる洗礼であって、思い込みでなく、聖霊の火で魂に焼印をつけられて、決して消されないバプテスマになるのです。

  誰も上から生まれなければ、新しく生まれることはできないとイエスは言われましたのが、その証拠です。私たちは、このイエスの洗礼に与りたいから洗礼を受けるのです。人の限界を知る故に、父と子と聖霊の名の下に、洗礼の水をお受けするのです。

  神の生ける霊によって洗礼をお授けいただく時に、私たちの過去は滅ぼされ、殺戮され、新しく神の霊によって創造されるのです。復活の霊によって新しく生きるものにさせられるのです。

  私たちは地獄に落ちても致し方ない色々な姿を持ち、罪を持っています。日々それを重ねている者です。だが、キリストはそれを取り上げてことごとく葬って下さるのです。「私のもとに来て、重荷を下ろしなさい」と言われるのは、この方のもとにおいてのみ、私たちの一番の重荷、罪の重荷をすっかり下ろさせて頂けるからです。

  ここにおいても、私たちは、恐れるな、萎縮するなとの希望の福音が聞こえます。このお方は、神のお力を持って洗礼をお授け下さるのです。人間の力でなく、人間の思いでなく、思い込みでもなく、神の客観性を持って見えざる神の霊が私たちの魂に聖霊の焼印を押して下さるのです。

  バプテスマのヨハネは、水の洗礼をもって、このようにキリストを指し示す人でした。彼はただキリストを指し示すだけで人生を終わりました。だが、自分はただ指し示すだけで、荒れ野の声のようにすぐに消えてしまう者であってもヨシとし、そこに喜びを抱いて生きたのです。真理を指し示した故に喜びを得て生きたのです。

  私たちは、あと何年生きるか分かりません。ここに80代の方も、40代の方もおられます。では80代の方が40代の方より早く亡くなるのか。若者が年寄りより長く生きるとは限りません。本当なのです。絶対本当なのです。

  今、ある方からこの教会でお姉さんのお葬式をしてもらえないかと相談を受けています。お姉さんはまだ40代の方です。ご両親は80才前後でいらっしゃる。でもガンのために、そんな年齢の逆転があり得ます。ですから私たちは、今日の日に、できるだけしっかりキリストを、真理であるお方を指し示して生きたいと思います。

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  最初に、キリストの福音は砂漠から始まった、荒れ野で希望が語られたと申しました。

  私たちは今日、教会において、どうすれば希望を作り出す人になれるでしょうか。また、隣人を愛する、愛の人であることができるのでしょうか。

  また教会の壁を越えて、目の前の人に対して、すなわち家族やごく身近な隣人に対して、どうすれば希望をもたらす人になれるのでしょう。何をすれば、どう生きれば、どういう在り方をすれば、希望を作り出す人になれるのでしょうか。そのことを主の御降誕を待つアドベントの時期に考えていきましょう。模索していきましょう。

  そうすることによって、人との連帯を作り出して行きましょう。「誰でもキリストにあるならば、見よ、全ては新しくなった」と言われています。私たちはキリストによって新しく造られて生きていきたいと思います。

             (完)


                                       2013年12月1日



                                       板橋大山教会 上垣 勝



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