古武士のような人でした


                       アンデルマットの道端に広がる野原
                                           (右端クリックで拡大)





                                       荒れ野で叫ぶ者の声がする (中)
                                       マルコ1章1-8節


                              (2)
  さてイザヤの預言通り、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」のです。

  洗礼者ヨハネが現れたということは、歴史の中に主の御心が現実に働いていたと言うことです。私たちは息の長い信仰の目を持たなければなりません。5百年か6百年か、皆がすっかり忘れた頃に神のみ心が実現するということです。神の遠大なご計画はゆっくりジワ~と進みます。

  冬の日差しが部屋に入ってきて時が止まったように静止しています。だがよく見ると、光の足取りは実際はゆっくりゆっくり動いています。神の御心も実にゆっくりですが確実に進んでいます。

  ユダヤの全地方、至る所から住民がヨハネの所に続々とやって来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けたのです。

  「全地方」とか、「エルサレムの住民は皆」とありますから、例外を除きほぼ全員がヨハネのもとにやって来て、「罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」ということでしょう。多少の誇張があったとしても、実に多くの人が罪を告白して洗礼を受けた事に驚かされます。

  当時、彼らも荒れ野の時代の中にあり、誰しも罪を犯さずには生き得なかったのかも知れません。それで、新しい出直しの悔い改めの洗礼を受けたのでしょうか。それほど神に対する罪意識を強く持っていたのでしょう。幸いなことに、罪などどうでもいい、仕方ないと考えず、良心の呵責を覚えて罪を告白し洗礼を受けたのです。

  人は汚(よご)れた汚濁の海の中にいると、少し汚れたものでも綺麗だと思います。真っ暗闇にいると薄明かりも光だと考え、キラキラ輝く本当に明るい世界がどんなものかを考えなくなります。しかし一度び、本当の明るさに接するなら、自分がいかに愚かさ、汚濁、醜悪の中にいたかを知って、驚くに違いありません。彼らはヨハネによってその闇を、罪の姿を知らされたのでしょう。

  ヨハネは彼らに洗礼を授け、主に向かって真っ直ぐ目を向けさせました。色々の妨げになるものを取り除いて、真っ直ぐ主を仰ぐように心の道備えをさせた。心の道備えがないと、容易に気が散って、主のもとから、真理から離れてしまうからです。

  荒れ野に現れたヨハネの姿は、先程申しましたが、荒行を行う修行者、禁欲の修道僧のごとく見えます。贅沢な食事でなく粗食の生活です。彼は生きざまでキリストを指し示しました。全存在をかけて指し示しました。言葉よりも、この生き様が多くの人の共感を呼んだのかも知れません。

  彼は、「私よりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と申しました。

  この優れた方がキリストである。神のお子であり、救い主、清い方、永遠のお方である。私は屈んで靴の紐さえ解く値打ちすら持っていない。この方こそ、いかなる人も信じる者を、地獄に落ちるのが当然な者をもお救い下さる方である。この方の前にあなたの重荷を下ろし、罪を告白し、すべてを委ねなさい。あなたを神が取り上げて下さり、お救い下さると宣べたのです。

  もう一度申しますが、ヨハネは、私自身は何ほどの者でもない。屈んで、その靴紐(ひも)を解く値打ちもない。私は荒れ野で叫ぶ声、やがて消えてしまう声に過ぎない。私は言わば気の抜けた泡である。泡沫のようなもので何の重要さもない。

  彼は自分を指し示さなかったのです。神のみ、真理のみ、イエスのみを指し示した。今の日本の風潮と正反対です。今は至る所、自分を見てもらいたい。自分、自分、自分の自己宣伝。個人も会社も、新聞もテレビも、あちこちにあるのは自己PR。これは本当にいったいいい時代なのか。

  私たちが驚かされるのは、ヨハネはここまで自分を謙虚に考える人であったことです。信頼できた上に、慎みがあった。古武士のような人物です。日本の古き良き世界を言うなら、地味だが信頼に足る古武士のようなヨハネこそその典型でないでしょうか。今の世に、このような人が一人でも多くいて欲しいと思います。能力がある人でこれほど身の低い人、へりくだりの人、砕かれた人が歴史の中に実在したのです。

  この間、北支区の教会学校の集会で、あちこちの教会が大きな教会、大きな教会と紹介されていたということです。その中で、大山教会は小さい教会でと紹介されて、Aちゃんがすかさず「小さくないよ」と言ったと聞きました。頼もしい子どもです。しかし、私は大きい教会である必要はない。大きいといっても日本の教会はたかが知れています。海外には実に大きな教会があります。イギリスでは村に行ってもパイプオルガンが備わっていました。大きい教会でなく、ただ、ヨハネのように時代の中で主をしっかり指し示す教会であればいいと思っています。

             (つづく)

                                       2013年12月1日



                                       板橋大山教会 上垣 勝



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