希望は朽ちません


       アンデルマット駅前。夏の気温は9度でしたが、今の最低温度はこの間はー17度でした。
                                         (右端クリックで拡大)





                                       荒れ野で叫ぶ者の声がする (上)
                                       マルコ1章1-8節


                              (1)
  講壇の前にあるランプに明かりが一つ灯りました。今日からイエスの誕生を待つアドベント、4週間にわたる待降節(たいこうせつ)が始まりました。それで、皆さんとイエスを迎える心の準備をするために、マルコによる福音書1章を取り上げました。

  先ず、「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあります。これはどういうことでしょうか。マルコ福音書はキリストの福音をバプテスマのヨハネから始めたのですが、これを福音の前史と考えれば、この箇所は福音の準備段階と読めます。何事も準備があります。下ごしらえは欠かせません。それがないと事がうまくいきません。学校の先生なら、1時間の授業をするのにその5倍、10倍、時にはそれ以上の準備、大学時代を考えれば何十倍の下ごしらえがあった筈です。

  バプテスマのヨハネは、「預言者イザヤ」によって5、600年前に預言されていた人物です。イエスの前にヨハネが登場して道備えをし、そのヨハネが来る前の5、600年前にヨハネのことが預言されていた。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」これはイザヤ書40章の引用ですが、ヨハネが現れる下ごしらえに何百年もかかっているのです。そして、事実その通り洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたと言うのです。

  私は今日は、ヨハネの宣教において、既にキリストの福音が開始したと見てお話しますが、そう見ると、ユダの荒れ野にゴワゴワしたラクダの皮衣を着て、腰に革帯を無造作に結び、荒行者のような野性的な姿をして、野生のイチゴや野蜜を食べ、忽然(こつぜん)と現われて「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」始めたヨハネの宣教は、ここに福音の始めがあるのですから、これは福音の前史であまり重要でないと見るのでなく、しっかりと耳を傾けるべき重要な出来事ということになります。

  イエスは今日の箇所のどこにも現れません。だがヨハネは、「私よりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と語って、まだ登場しない方を力強く指し示しています。

  キリストの福音は荒れ野に始まったのです。荒れ野とは砂漠のこと、寂しい殆ど何も育たない不毛の地です。困難と悩みがあるサタンの跋扈(ばっこ)するとさえ言われる地です。だがそこにイエスの福音の始まりがある。平和や喜びなど無関係と思える地に、イエスの希望の福音の芽生(めば)えが用意されているということであり、罪が溢れ、地獄に落ちるのが当然と言える所に、救いの始まりが神によって厳然と準備されているのだということです。

  人間は良い環境を望みます。裕福で、幸せな場所で始めたいと思います。60年前の誕生時に取り違えられ、今やっと実は別の家の子だったことが分かったという方が話題になっています。育てられた家は生活保護世帯で一部屋のアパート、ラジオが唯一の贅沢な娯楽。夜間中学を出て町工場で苦労して働き最後はトラック運転手になった。生涯苦労し独身で来た。だが、実の家は豊かで兄弟は家庭教師がつき、みな良い大学を出た。さぞ実のいい家庭で育ちたかったでしょうね。人生の不条理を覚えますね。そうなのですが、だが、たとえ荒れ野であっても神はおられるし、そこで神は新しい希望を生み出して下さることを疑ってはならないのです。

  何故、荒れ野でも神がおられるということがそんなに大事なのか。今日本は、荒れ野の時代にあると言えるからです。日展と言えば国が進めてきた最大の美の祭典です。ところが書道や篆刻部門だけでなく、洋画部門でも審査員に現金を送って入選していることが分かった。これでは美の祭典でなく醜の祭典ですよ。徳洲会の問題があり、都知事の事件があり、金まみれの不正の荒れ野です。それに老舗のレストランやデパートが偽表示をやっている。

  しかし荒れ野の時代が本当に深刻に極まっている場所は別の所にあります。特定秘密保護法案という物騒な法案が衆議院を通過し、参議院の審議が始まりました。もし通過すればかなりの言論統制が進むでしょう。言論統制とは思想統制です。どこからが秘密で、どこからそうでないかぼかした法案ですから、君子危うきに近づかずと思いますから、誰もが自主的に規制します。

  恐れさせ、萎縮させ、自己規制させるのがこの法案の狙いでしょう。自由な発想、自由な発言をさせなくさせるものです。これは既に、学校の先生たちに日の丸・君が代を強制して、歌っているかどうか口元チェックまでして無理に歌わせ、色々な考えを持つ先生がいるしそれだから生徒は考え深くなって育つのに、自由な発言、自由な発想を学校から禁じて来た動きと連動しています。学校の先生たちに課したことを今やマスメディアや言論界や一般の人たちに広げ、NHKの人事にも政府が介入して国民を統制する意図が伺われます。教科書も偏向したものにして検閲しようとしています。

  暫く前に申しましたが、外国の新聞を読める方はぜひ日常的に海外の新聞をお読みになって、日本が今どういう状況に置かれているか、彼らははっきり物を言っていますから海外の人たちは日本の動きをどう見ているかキャッチして、自分の国を客観的に見る目を持って頂きたいと思います。

  ただそうした中で、ここが大事ですが、今日の聖書は、荒れ野の中で既にキリストの福音が始まっていると語るのです。人を恐れさせ萎縮させる荒れ野、サタン的な存在がそこには渦巻いていますが、その荒れ野でキリストの朽ちることのない希望の福音が始まっているのです。恐れてはならないし、たじろいではならない。主が私たちと共におられるのです。

  私たちは2013年の主の御降誕を待つアドベントに、このことをしっかり心に刻み付けたいと思います。希望の主が私たちと共におられるのです。

             (つづく)

                                       2013年12月1日



                                       板橋大山教会 上垣 勝



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