国も十字架を背負っている


   実際に使われていた色々な鎖。手や足や首などに嵌められつながれた。(チューリッヒ国立博物館
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                                           自己否定の正しさ (下)
                                           ルカ14章25-27節



                              (2)
  次に、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と語られました。これも重い課題です。

  自分の十字架を背負うことです。十字架とはそもそも、その上で磔にされる場所です。その重い柱を負って、やがてその上で殺される十字架を担いで、イエスゴルゴタへの道を進まれました。十字架は苦痛となる避けられぬ重荷です。自分が担わなければ、誰も代わりに担ってくれない荷物です。

  それを避けず、それを背負って、私について来るのでなければ、私の弟子であり得ないと言うのです。

  誰しも十字架を持っているのではないでしょうか。皇室だって一人ひとり十字架を背負っているでしょう。個人の肉体や心や精神に重くのしかかる十字架。心の内にも外にも、十字架はあります。自分の性格が十字架である方もあります。家族や社会や世界が自分に課した十字架もあるでしょう。生まれる前から十字架を背負う人もあります。だが目を閉じず、それを避けず、負うべき自分の十字架を、我が問題として引き受けて従うのでなければと言わるのです。

  先週お話した、13歳でハンセン病、癩になり、14歳で瀬戸内の小島の療養所に入れられた塔和子さんに、「師」という題の詩があります。

  「私は砂漠にいたから/一滴の水の尊さがわかる。/海の中を漂流していたから/つかんだ一片の木切れの重さがわかる。/闇の中をさまよったから/かすかな灯が見えた時の喜びがわかる。/」

  ハンセン病で捨てられた人生、これ以上の的確な状況説明はありません。

  「苛酷な師は/私を分かるものにするために/一刻も手をゆるめず/極限に立って一つを学ぶと/息つくひまもなく/また/新たな試みへ投げ込んだ。/

  今も師は/大きな目をむき/まだまだお前に分からせることは/行きつくところのない道のように/あるのだと/愛弟子である私から手を離さない。/
  そして/不思議な嫌悪と/親密さを感じるその顔を/近々と寄せてくるのだ。」

  師とはイエスのことでしょう。「過酷な師」と呼んだのはイエスへの熱い愛を吐露するためです。神は私を愛弟子とされたから、一刻も手をゆるめず、極限まで行っても更に奥に奥があることを試練の中に投げ込んでお教え下さる。非常に逆説的ですが、自分はハンセン病になり、特別に愛されているとの思いが伝わってきます。イエスの愛はそこまで深いのです。

  これはイエスとの密接な関係を歌った優れた詩です。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければとおっしゃるのは、イエスは実にまことの愛をお持ちだからです。

                              (3)
  国というものもまた十字架を背負っている場合があります。その場合、国もまたそれを避けず、それから目をそらさず、自分の十字架を負いなさいと言われていると言っていいでしょう。

  この夏、チューリッヒにあるスイス国立博物館を訪ねたことを前に申しましたが、そこにスイスの国の歴史が展示され、キリスト教が犯した罪があからさまに展示されていました。スイスはほぼ全員がプロテスタントカトリックですから、他の人の罪でなく自分たちの罪をそこに暴露しているのです。中でも異端審問、魔女裁判ユダヤ人への迫害などで火刑にかけられた人の絵やスケッチや、拷問に用いた道具などが展示されていて心が痛みました。

  だが、彼らはそれを自虐史とか自虐史観などと被害者的に呼びません。むしろ自らの罪と素直に直面することをヨシとするのです。自分の罪に素直でなければ未来は拓けないからです。自分の国の十字架を背負う。自分自身の負の遺産を背負う。その時に他国との協調も将来も見えて来るからです。

  主がヨシュアに「恐れてはならない。強く、雄々しくあれ」と語られたように、キリスト者は雄々しくありたいと思います。詩編に「我が心定まれり」とありますが、心が定まらない限り不安ですが、定まると十字架を担えるのです。しかも十字架を担う時には、新しい時代の美しい花が花開きます。

  私たちは色々な苦しみを持ち、時には地獄に落ちるべきほどの罪や重荷を持っているかも知れません。だがキリストの愛がその痛みに触れて下さる時に、そこに真っ赤な花が咲くのです。私たちのトゲで真理の花を咲かせられるのです。

  今は人糞なんて使うことはないでしょう。でも鶏糞や牛糞なら使います。堆肥も必要です。むろん化学肥料も使います。でも人類はこれまで、人間によって捨てられてきたものが肥料になって大地を豊かにして来たのです。今では考えられませんが、「動物と人間の排泄物が大地にとって有用なものになるのです。つまり腐った物が大地を養い、実を結ばせ、命を与えるのです。」(J.バニエ) それに似て、人間の苦しみや十字架は、それを負う時に神様によって素晴らしいものに用いられるのです。

  「一粒の麦はもし死ななければそれはただ一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」とイエスは言われました。イエスは、私たちに多くの実を結ばせるために、誰であれ、私の弟子になりたい者は、「自分の十字架を背負ってついていらっしゃい」と言われるのです。

  誰も私たちに深い真実を言ってくれないと思っている人があるかも知れません。だがイエスは、このような深い、真剣な愛を持って真実を語り、私たちを一人前の人間らしい人間として育てようと愛して下さることを覚えたいと思います。

          (完)

                                       2013年11月24日


                                       板橋大山教会 上垣 勝



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