家族への新しい向かい方


聖餐のパンを家畜に与えたこと?が冒涜とみなされ、その場所がイエスの受難をしのぶ巡礼地になりました。
                         (チューリッヒ国立博物館
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                                           自己否定の正しさ (中)
                                           ルカ14章25-27節



                              (1)
  それにしても厳しい言葉です。これに恐れをなして、イエスから離れる人があるかも知れません。知人は、これはイエスが私たちに下さったトゲだと言います。この言葉を聖書から抜きたいとさえ思います。だが抜けば、聖書の本質まで抜き取られる可能性があるでしょう。

  いずれにしろ、これは私たちの心を引き締め緊張させる言葉ですし、私のようなたるみっぱなしの者にとっては、こういう緊張感を適度に持たされるのはあながち悪くありません。

  ただ、イエスが言おうとしておられることを誤解してはいけません。それをよく聞き、狭く見える門から入る者であってほしいと思います。

  イエスは、福音書のあちこちで語られているように、「父と母を敬え」というモーセ十戒を大事にされました。これは神への捧げものだと言えば、父母を愛さず、何もしないで済むと考える人たちを強く戒められることもありました。イエスは律法を廃棄するためでなく、成就するために来られました。

  ですから、今日の箇所でイエスは、「父母を、また自分を愛するな」と言っておられません。「これを憎まないなら」と言われたのです。「憎む」とは、元のギリシャ語でも、憎む、嫌悪する、軽視する、忌み嫌う、また執着しないことを指します。「これを憎まないなら、嫌悪しないなら、軽視しないなら、忌み嫌わないなら、執着するなら」という事です。

  イエスは、「これを憎まなければ」と言われますが、それは自分のために憎むのではないし、自分のために親や家族を捨て、軽視せよと言っておられるのではありません。それは利己主義でしょう。

  そうではなく、この世であなたが最も大事にしている家族や家族関係。だが神は、親兄弟、子ども、マイホームを遥かに超えた真理であることを覚えよということです。たとえ愛情深い濃厚な人間関係がある家族や肉親でも、そこにも負の側面があります。マイナスの面です。徳洲会の一族総かかりの欲に絡んだ事件は、家族のマイナス面がもろに出たものです。だがその執着を超えて行くのですし、それを超えるお方が存在されるのです。幾ら大事な家族も神ではありません。

  時には、自分を憎まなければ、真理へと自分を押し出すことはできません。執着していては、自己否定し時には自己を嫌悪しなければ、本当の道にたどり着けません。

  私は25才まである企業で働いていましたが、最終的に牧師になる決意をした時は、体が震えました。まるで浮き輪もなく大海原に飛び込む思いでした。上司に挨拶てし、会社を辞める日は、ガタガタと震えが止まりませんでした。

  時には、親や妻の反対にも拘らず、神からの招き、召命を強く感じて、それを押し切って牧師の道を選択する人があります。ある方は医者になるつもりで、家族もそれを期待していましたが、「一切を捨てて、我に従え」というみ声を聞いて、神学校に進みました。親からの援助、遺産も捨てて前進したのです。ある意味で家族を捨てた。牧師は往々にしてそのようにして作られます。

  しかし家族に反対されながら、その方は心の中で、これは両親や家族を捨てるのでなく、彼らを「主のみ手に委ねるのだ」と考えたそうです。捨てるのでなく、主のみ手にゆだねる。大事ですね。そしてやがて実際、両親や家族をキリストにおいて新しく捉え直したのです。どういう捉え直しか。それは、自分はこの家族に遣わされていると思うようになったと。やがては、普通の家族以上に責任をもって家族に向かうようになられました。

  「家族や自分を憎まなければ」という言葉を安っぽい次元で考えていると、こういう理解は出てきません。この方は真剣に掘り下げてこういう深みのある理解に達したのでしょう。

  父や母、家族を愛せない悩みを抱えておられる方がいるかも知れません。捨てられたとか、他の理由で赦せない方もあるかも知れません。また義理の母を愛せないとか。そんな方もキリストを信じれば、新しくキリストにおいて家族を捉え直し、家族に向かえるようにされるでしょう。

  「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」家族に新しく向かうには、一旦、自然からくる親子の恩愛の情さえ断ち切って父なる神に自分の真の父になっていただく。この厳しい断絶が必要です。そうすれば、キリストの弟子として、新しく福音的に家族に遣わされるのです。

 キリスト教は良心宗教と言われますが、自分の心に語られる神の言葉、良心を大事にします。これを自分の命より大事にし、損になってもそれを守る。そのために戦わなければならない時には、家族も自分の命も顧みず、後ろ髪を引かれ、まとい付いてくるものを振り払い、投げ捨てなければならない場合があります。神から私たちを引き離そうとする人間の恩愛の情を憎み、軽視しなければならない場合です。

  ただ、誰もがいつもいつも家族や自分自身を憎んだり、軽視しなければならない状況に立たされるわけではありません。イエスはあくまでも弟子の心構えを語っておられるのです。

  イタリアにアッシジという町があります。知人のイタリア人の車で、北の町からアペニン山脈を越えて訪ねたことがあります。聖フランシスはイタリアのアッシジの裕福な毛織物商の家に生まれ、青年時代は街の若者たちと遊蕩に明け暮れたようです。だが、やがて父も母も捨て、一切を捨て、無一物になってキリストに従いました。それは神が、罪の中にいる汚れた私を救うために、御子を捨てて下さったからです。地獄に落ちるべき者さえ救うために、御子を惜しまずお捨てくださったという神の愛に触れた。私をそこまで愛して捨てて下さったという福音に出会い、慄(おのの)きをもって一切を捨てていったのです。いや、捨てることが目的でなく、このお方に従うことが目的になったのです。


       (つづく)

                                       2013年11月24日


                                       板橋大山教会 上垣 勝



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