砕かれ、欠乏を知る人でした


  火あぶりの刑。自虐史と言ってはなりません。事実を正視することから明日が拓けます。無論日本でも。
          チューリッヒ国立博物館で自国のキリスト教の歴史を赤裸々に展示していました。
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                                      あなたは大晩餐会に招かれている (下)
                                      ルカ14章15-24節


                              (2)
  彼らの断りを報告した僕に、主人は、「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と命じ、それらの人たちが連れられて来たと譬えは語ります。

  連れて来られた人たちはどういう人でしょう。彼らは、最初の招待客たちとは打って変わって、畑も牛も買えない貧しい者たちであり、砕かれた者たちの代表です。また喜びでなく、世の苦労を知る者たちの代表であり、助けを要とする人たち、欠乏を知る人たちです。

  ハンセン病・ライ病を13才から病み、14歳で家を出され、瀬戸内の小島の療養所に住んで、この8月に83才で亡くなられた塔和子さんのことは暫く前にご紹介しました。キリスト者で多くの人から注目された詩人です。

  「世界の中の一人だったことと/世界の中で一人だったこととのちがいは/地球の重さほどのちがいだった。 投げ出したことと/投げ出されたこととは/生と死ほどのちがいだった。 捨てたことと/捨てられたこととは/出会いと別れほどのちがいだった。……」と綴っておられます。

  塔さんの十字架の重さを想起させられます。この方も生涯、欠乏を知る人、砕かれた人の一人であったでしょう。

  彼らは誰からも招待されない人たちであり、相手にされない人たちです。彼らはそういう人を代表しています。ところが彼らは宴会に連れて来られて、来て見ると豪華な食卓に与ると共に、主人との考えても見なかった会話、思いもしなかった素晴らしい人格的な交わりをすることができたのです。

  塔さんもキリストと出会ってそういう世界を知られた。私自身もです。青年時代の自分を考えると、色々のことで非常にニヒリスティックでした。絶望的でした。そういう中で、キリストのもとに行かざるを得なかったと言っていいでしょう。自分の性格や諸状況が半強制的にキリストの道に押しやった。にも拘らず、そこで何年も経ってやがて知って行くのは、盛大な大晩餐会に比すべきキリストとの喜びに満ちた出会いであり、イエスとの交わりでした。

  僕は主人に、仰せの通りしましたが、まだ席がありますと報告すると、主人は次に、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」と言ったといいます。

  「無理にでも」連れて来られたこの人たちは一体何を意味しているのでしょうか。この「無理にでも」という言葉は、無論比喩的な表現ですが、元のギリシャ語では必要、強制、無理やり、圧迫を意味しています。彼らは無理やり、まるで召集令状で集められたような仕方で連れられて来たという事です。

  すなわち断りようがない。従って神の前に出ることを最も高い優先順序とさせられた人たちです。強制的です。しかしそれは、私自身がそうであったように恵みの強制なのです。半強制的に連れて来られた。そして主人の前に出てみた所が、強制とは正反対に、全くの恵みで満ち溢れていたという事です。先ほどの詩人はここにも当てはめるでしょう。そういう恵みの食事を最初に招かれていた人たちは逸したが、この人たちは招待者である神の食事に与ったというのです。

  強制であるのにおかしいかも知れませんが、譬えなのです。だから強制なのに、恵みに恵みを加えるような恵みで溢れていたのです。

  一体この譬えは何を語ろうとしているのでしょうか。それは神との関係の緊急性であり、絶対性であり、また不可欠性です。神に造られた人間は神との関係を持つことが絶対的に不可欠であり、抜き差しならぬほど重要だということです。それを優先しなければならないということです。それが優先されてはじめて人間の真の喜び、平和、生きる自信が湧いて来るということです

  「無理にでも人々を連れて来なさい。」無理にでも来させる。これは言い過ぎでないか。だがこの聖書は、そう語っています。

  人の神との本来の関係は絶対的なのです。神との関係を失えば、自分の生命の源との関係を失うことです。ですから神との関係は不可欠なのです。絶対的なのです。それをこの譬えは余すことなく語っています。

  しかも神の大晩餐会の用意は、「用意ができましたから」とあるように、私ではなく、神が整えてくださるのです。生まれる前から整えられている。準備が出来て、さあ、生まれていらっしゃいと呼ばれて私たちは生まれて来た。救いの用意を整えて迎えて下さる。

  この譬えは、人間は神の前では無なる存在であることを、体の不自由な者、助けを必要としている者、見えない者などの形で言われているのでしょう。たとえ私たちが色々な欠けを持つ者であっても、神は救いの準備万端を整えて私たちをお招きになるのです。苦労し、砕かれ、大晩餐会に招かれる筈がない者たちが主なる神の食卓に導かれ与るのです。だが、神を不必要とする者や神を相手にしようとしない者は、悔い改めて帰って来るまでは神の食卓に与ることはないのです。自ら避けているからです。だが放蕩息子のように、戻れば父なる神は大歓迎して迎えて下さる。神は憐れみ深いお方なのです。

  最初から招待されていた者たちは、自らを選民と称している人たち、ユダヤ人指導者を指しているのでしょう。聖書で言う選民というのは神との関係でのみ選ばれているのに、神との交わり、人格的関係を持とうとしないのです。

  神に招かれているということを知っているだけでは不十分。それを受けて応じなければならない。その時、神と出会い、神を知り、その恵みを食べて味わうようになる。しかし応じることがないなら、神の恵みを味わい損ねるでしょう。

  「わたしの食事を味わう者は一人もいない」とあるのは、そのことです。応じなければ、神が幾らそれを望まれても、人格的関係に入ることはないのです。

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  私たちは全て、誰もが例外なく主なる神の大晩餐会に招かれています。人間として生まれたということは、神の大晩餐会に加わる自由を、恵みを差し出されていることです。

  しかしそれを拒む人たち。畑を買ったことや、牛を買ったことや、結婚したことや、その他その人の内面から出てくる様々なことを理由に、神との人格的な関係を無視する人たちがあります。宴会にやって来た人たちとは違って、この人たちは、主人の招待を単に付き合いと考えていたり、主人をてんで相手にしていません。また招待を、自分の私事(わたくしごと)を後回しする程の値打ちあるものとは思っていない。神といえども自分の実生活に関わって来ないし、関わらせないし、優先順位は私事よりウンと低いのです。

  病院の全国的なチェーンを作って展開する大きな医療法人組織の幹部たちが、公職選挙法の罪で捕まりました。夫婦、親子、兄弟、親族が金まみれ、組織ぐるみの犯罪を犯すことになったようです。家族の中に、誰もそれを阻止する者がいなかったことは悲劇です。ただ一人でもいて、否を語っていればこうはなっていないか、なっていてもそこに救いがあります。だがそうでなく丸ごとです。これはこの人たちだけでなく、神を知らず、必要とせず、むしろ避ける者たちの行く末を物語っていないかと思います。

  金儲けは出来、きれいな奥さんを迎え、日当たりのいい肥えた畑地を手に入れることは出来るかも知れません。家はモダンな粋なデザインでしつらえ、洋風のお庭があり、家に入ると舶来品のインテリアの家具で占められ、セレブとの付き合いなどもある。だが神との関係という根本的な一点を欠くとき、やがて一切が瓦解してしまうでしょう。

  イエス様はファリサイ派の指導者、サンヒドリン・ユダヤ最高議会(国会)の長老格の家に招かれた時にこれを語られました。首相官邸ではありませんが、彼の家で起こったことは今日の我が国に対し示唆するものが多くあります。


        (完)

                                       2013年11月17日


                                       板橋大山教会 上垣 勝



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