逃げない人々


ツヴィングりはチューリッヒでは特別に尊敬されています。戦死しなければカルバンと同様の影響を与えたでしょう。
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                                              良い羊飼い (中)
                                              ヨハネ10章11-13節


                              (2)
  信仰の継承。信仰を継いでいく。これは非常に重要なことです。教会は2千年間、このことに力を注いで来たと言っても過言ではありません。それはイエス・キリストの光が、いかなる時代の人たちにも永久に届けられるためです。

  私たちが11月第2週に永眠者記念礼拝を行い、この日に幼児祝福式をするのは、この教会に属して亡くなった方々の共通した思いは、自分たちの信仰を継ぐ人たちが若い人の中から多く出て欲しいという、当然な願いを持っておられたからに外なりません。

  私たちはこれを大事にして、教会に関係する小さな子たちを毎年祝福して来ました。この小さな子らが与えられていることは感謝です。

  子どもたちは退場しましたが、先ほど子供たちと皆さんにお話をさせていただきましたので、今は聖書から1点だけお話させていただきます。

  先ほどの聖書に、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」だが、「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」と、良い羊飼いと羊飼いでない単なる雇い人との違いが語られていました。

  良い羊飼いというのはイエス様を指しますが、イエス様は羊である私たちを罪の力や死の力から守って下さり、私たち羊のために命を捨てて下さるというのです。この譬えが語られた背後には、雇い人は命惜しさに羊を捨てて逃げるが、羊飼いは羊を守るために命懸けで狼やライオンなどと戦う事実が当時よくあったからでしょう。

  羊飼いが羊のために敵とも勇敢に戦うのは、むろん自分の羊だからですが、本腰を入れて羊たちを担っているからです。しかし、雇い人は本腰を入れて担っていない。それで狼が来たと知ると逃げるのです。

  「狼が来るのを見ると羊を置き去りにして逃げる」とありますが、見ただけで一目散に逃げるというのなら酷いと思います。命を張って真剣に立ち向かいさえすれば追い払うことが出来ても、まさかのことを考えて、少しも危険な目に遭いたくないということでしょう。ここで「羊」とあるのは実際には人間のことを指していますから、「羊を置き去りにして」というのは、実に残酷な無責任な在り方です。

  それに対して、良い羊飼いは逃げないと言われるのです。これは羊にとっては何と朗報でしょう。こういう羊飼いがいれば、安心して恐れなく暮らせます。

  アメリカで以前、去年12月に小学校での銃乱射事件というのがありました。犯人が幾つかの教室に入って銃を乱射し20数人が亡くなりました。あの時、勇敢にも何人かの教師や校長が子どもたちを逃げさせ、犯人に両手を広げて立ちはだかったことが報じられました。

  私は、何と勇敢な先生たちだと思いました。子どもたちを本当に愛していると思いました。気の毒でしたが、彼らの勇敢な姿に感動しました。その結果犠牲者も多かったが、多くの子供たちが助かりました。

  2千年間、キリスト教会が続いて来たのは、どんなことが起こっても逃げない人たちがいたからです。一人になってもイエスから逃げない。ドイツにベーテルという障害者の大きなコロニーがあります。村全体がコロニーで郵便局も消防署もある心身障害者のコロニーです。ナチス・ドイツはここを弾圧しました。彼らは、障害者など国家に無益だ、足手まといだ、彼らを処置せよ―殺せ―と命じました。しかしベーテルが宝としていたのは最も重い重度障害者でした。それで、彼を殺せというなら先ず私たちを殺してからにして欲しいと言って、障害者と共にあって逃げなかったのです。

  教会が2千年間続いて来たのはそういう勇敢な人たちがいたからです。そもそもイエスは逃げなかった。逃げずに愛されたのです。失われた一匹の羊を最後まで探される方であられた。そういうイエス・キリストの真実な愛に愛されているので、ここに永遠の確かな愛があるので、苦難も承知でイエスの愛に留まり、それを証したのです。

  そういうことは中々できませんが、でもそういう信仰者が一人でも多く生まれることを願いたいと思います。雇い人でなく、いや、雇い人であっても、腰を入れて担う人はいます。矢面に立っても恐れない一人前のキリスト者です。

  無論そうでない人がいてはならないという訳ではありませんし、私たちが出会うどの人も、私たちが知らない問題で苦労し戦っているのだと思いますから、それはそれでキリストにおいてしっかり戦って行って頂きたいと思いますし、そういう知らない問題で苦労し戦っている人たちに無神経であってはならないと思います。

  しかし、イエス・キリストのために腰を入れて担うキリスト者は、やはりいて欲しいと思います。

  イエスはマルコ福音書13章でこう言って弟子たちを励まされることがありました。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

  「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」良い羊飼いがおられる限り、私たちの為すことは必ず良い実を結んでいくし、課題を担って行く力を授けられると思います。聖霊が働いて、言葉も力も授けて下さるのです。

  先に召されたこの方々は今は主の許で眠っておられますが、「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」という言葉に、アーメンとおっしゃられるだろうと思います。

          (つづく)


                                       2013年11月10日


                                       板橋大山教会 上垣 勝



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