6才で「民族」と出会う


                        チューリッヒの旧市街のホテル界隈
                                            (画面の右端クリックで拡大)
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                                           心のこもった手紙 (下)
                                           第Ⅰテモテ1章1-2節
      

                              (4)
  次に、「希望であるキリスト」と語っています。なぜなら、キリストは死に勝利し、打ち勝たれたからです。もはや死は最終の力ではない。既にそれは勝利されていると見ているからです。

  「希望であるキリスト・イエス。」これがどうして重要なのでしょう。キリストが再び来て、最後的にあらゆることに決着をつけて下さるからです。決着を付けて下さらなければ不公平としか思えぬことが、世には一杯あるからです。事柄によっては、死んでも死に切れないという思いを持ちます。特に不条理なことで悲しみを抱えている方はそのことがお分かりかも知れません。

  「民族と出会いそめしはチョーセン人とはやされし春6才なりき」、「おさなき日罵声(ばせい)の中を『鮮人』のわれは母の名呼びつつ駆けぬ」。

  胸を刺される歌です。じっくり味わうと涙がこぼれそうになります。6歳にして、自分の民族と出会ったのです。日本における朝鮮人への蔑視。その重く解けない悲しみと決定的に出会っているのです。6才ですよ。小学1年です。オモニ、オモニと母の名を呼び、泣きながら駆けていく幼い女の子。後ろから『鮮人』という子どもたちの罵声がどこまでも追いかけて来るのです。

  三重県伊賀上野に住んで短歌を詠んでおられる李正子(いよんじゃ)さんはこういう境遇の中で育ち、やがてこの歌を詠んだのです。今はもう、60才を過ぎられたでしょう。人間社会において、このような人生の悲しみを、いつ、誰によって、どう決着をつけてもらえると言えるでしょう。裁判所がしてくれるでしょうか。警察はどうでしょうか。どこかの政党に頼んだらできるでしょうか。

  主は公正と公義を持って、人間の決定をも覆(くつがえ)して裁く方です。一切を公平に、最後的に、究極的に決着を付けて下さるお方によってしか、「なぜなんだ」というこのような悲しみの溜飲(りゅういん)を下げることは出来ないのではないでしょうか。韓国的に言うなら、神様によってしか恨(はん)は晴れない。神様こそ、「恨晴り(はんぷり)」、悲しみを晴らして下さる方です。

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  こうして挨拶は、「信仰によるまことの子テモテ」と宛てています。テモテはパウロの信仰によって、まことの信仰に導かれた青年です。ですから私が信仰によって生んだ子と語っているのでしょう。あるいは、テモテ、あなたは信仰を持ち、神によってまことの子とされたという意味です。

  いずれにせよ、神の伝道者としてのテモテの自覚を促す言葉です。若き伝道者が使命の重さに耐えかねぬように、それを神とキリストの力によって担って行くようにという励ましです。

  若者は、自分の力によって生きようとしがちです。人の力を借りたくない。自立したいからです。その思いが強いと援助の手を振り払い勝ちになります。もう少し成熟して自分の弱さを肯定して、助けも含めて自分だと考えれば肩の力が抜けるのですが、若さは度々気負い勝ちにします。突っ張ります。

  まして自分よりも年上の者たちを導かなければならない環境に置かれると気張りがちです。

  だからこそパウロは、「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」と、祝福の言葉、祝祷を語るのです。

  若きテモテ。彼に必要なのは、神とキリストの恵み、恩寵です。その恵みに豊かに与り、その恵みに支えられて喜びを与えられる者だけが、その恵みを喜ばしく語ることができるでしょう。また、神とキリストの憐れみを受けてこそ、キリストの憐れみを大胆に徹底して率直に語ることができます。

  その上、キリストの福音を語る者は、キリストの平和に心が満たされていなければ恵みをうまく説くことはできません。この世への敵対心や審判や憎しみを持っていては、対立的にしか語れないでしょう。もしそうならキリストの恵みを伝えることは不可能に近いでしょう。

  キリストの平和に与っていれば、たとえ経験は乏しくてもその証は真実になります。経験不足を嘆いてはならないのです。嘆くのでなく、事実的にキリストと真実に深く交わっていること自体が大切だからです。

  「切れるか、切れぬか、あんばい見よ。」以前に話したことがありますが、江戸時代に仙崖和尚(おしょう)という禅宗の坊さんがいました。この言葉は描いた禅画に記した言葉です。ユーモアにあふれた博多の異色の人物です。

  五月の子どもの節句の禅画で、兜と刀を描き、その前に大きなお餅(もち)が供えられている。そこにこの言葉が書かれています。「切れるか、切れぬか、あんばい見よ。」男の子の節句で刀があるわけですが、その刀は本物か、飾りか。仙崖和尚は、その刀でこの餅を切って見よ。「切れるか、切れぬか、あんばい見よ」、切れ味を試してみよと言うのです。

  そして切ったついでに、餅に餡(あん)が入っているかどうか、餡をば見よ、子どものためのぼた餅です。餡を見よ。「餡ばい見よ」。博多弁でしょう。

  彼はそう言って、それに引っ掛けて、お前さんの生き方で本当に人生の難問を切れるのか、解決できるのか、錆び刀でないかどうか、形だけの飾りだけの刀でないかどうか、切って試して見よ。私は何十年も昔それを見て、そう問われているように思いました。

  信仰がハッタリになっている。形だけになっている。それじゃあ何にもなりません。世に通用しません。ですから、神とキリストの恵み、憐れみを豊かに受けて、キリストの平和に実際に生かされていることが大事です。

  祝祷というのはキリスト教独自のものです。祝祷は自分で自分にしません。祝祷者が、他の人に向かって語ります。反対から言えば、一方的に与えられるものです。何の功績にもよらずに、神さまの祝福は頭から浴びるのみです。受け取るのみです。その恵みを実際に感謝し頂く者のみが祝福を与えることが出来るのです。その時、私たちの刀はハッタリではない。神様が働いて、歯のこぼれているものをも用いて切れるものにしてくださるのです。


          (完)

                                       2013年11月3日


                                       板橋大山教会 上垣 勝



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